自分の罪を棚に上げて他人を責める事の解決方法。

今晩は。rieruです。

今日は下記の聖書の言葉をお読み頂きたい。

「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭7:3-5‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/mat.7.3-5.口語訳

ネットニュースとかで自分の事を棚に上げて人の事を批判する現象を「ブーメラン」と表現する事がある。上記に紹介した聖書の言葉をブーメランを正すように教えている。自分の目の中に梁がある状態、つまり自分の中に大きな罪があるのに、兄弟の目のちり、すなわち小さな罪を責めるようなことはあってはならないと聖書は教えている。

しかし、人間の性質として自分の中にある悪には目をつぶり、他人の悪を責めてしまうことは良くある。rieruとてそういう事がないかと言えばそうではない。ではそうならないようにするにはどうしたら良いか。その方法を教えてくれるのが、聖書の下記の記事である。

「すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。 彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。 これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭8:3-9‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/jhn.8.3-9.口語訳

上記の場面に自分が立ち会っていてキリストから「罪のない者が石を投げなさい」と言われた時に石を投げられると確信を持って言えるかどうか想像してほしい。石を投げる事は死を意味する。モチロンその死は回復不可能だ。自分が石を投げて人が死に、その後で自分の罪が明らかになったらどうしようか。その事を想像したらなかなか投げられるものではない。

この場面で石を投げることは、はネット上で他人に罵詈雑言を浴びせかけるのとは訳が違う。リアルに人が目の前で死ぬという現実がありながら石を投げられるだろうか。なんの条件も付けず「この人は死に値するから石を投げて殺しなさい」と言われたら、自分に無頓着な人なら投げられるだろうが、「自分に罪がないと言うなら」と条件がついたら中々投げられるものではない。少なくとも人がリアルに死ぬという時に「自分には罪がない」と胸を張って石を投げられる人はいるのだろうか。

この問いを真剣に考えると簡単に他人の罪を責めることはできなくなる。少なくともrieruはそうだ。問題はいつもその状態を保つことが難しい事だ。rieruはついつい自分の罪を忘れて他人を責めてしまう。しかし、それはこの聖書の言葉を繰り返し読む事により矯正されなければならないと思っている。

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