自分では到底払う事のできないほど大きな罪の負債を代わりに払ってくれたキリストに対するクリスチャンの義務

今晩は。rieruです。

今日はクリスチャンが失敗と向き合う事について語りたい。ヨハネの福音書の21章には下記のように記されている。

「ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。 ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。 イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭21:20-22‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/jhn.21.20-22.口語訳

これは、キリストを三度「知らない」と言ったペテロが再度キリストに従う決意を表明した後に起こった事である。キリストは、再度従う決意をしたペテロに対してキリストに従う事には困難が伴う事を教えた。それは死を迎える時は囚われの身になるほどだった。その時ペテロは他の弟子について「この人はどうですか」とキリストに問いかけた。自分だけが苦しい思いをする事がペテロに取っては耐えられないことだったのだろうか。

確かに人は「自分だけに」辛い思いをしていると思うとより辛くなる。皆で同じ苦しみを共にしていると思えば幾らかはその辛さも和らぐ。しかし、だからといって他の弟子が同じ苦しみを味わって欲しいと思うのは筋違いである。積極的に同じ苦しみを味わって欲しいと思わないとしても、そういう人を探す事自体があまり褒められた事ではない。ペテロの問いかけには自分と同じ苦しみを経験する他人を探す意図が見える。

しかもこの出来事は死から甦ったキリストに出会った後に起こっている。よみがえりのキリストと出会う事は弟子にとってこの上ない喜びであり、そのキリストのために生きる事の動機となるべきものである。それが起こった直後でも人は弱さによって醜態を晒してしまう。

同じように今を生きるクリスチャンにも人としての弱さは確実に存在する。クリスチャンはキリストと出会い、そのキリストのために生きたいと願うものだが、現実の世界では弱さゆえに困難を覚えるものである。

その弱さを言い訳にキリストに従うことを放棄するのはクリスチャンとしてやってはいけない事である。クリスチャンは弱さゆえに間違いをおかす。その現実とはトコトン向き合わないといけない。本当に真摯に反省してその後の糧にする。それが間違いを犯した時のクリスチャンの取るべき態度である。失敗と向き合う事は大変辛い。そこから逃げたくなるのが正直な気持ちである。しかし、それと向き合う事が、自分では到底払う事のできないほど大きな罪の負債を代わりに払ってくれたキリストに対するクリスチャンの義務である。

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