キリストの十字架の目的は罪からの解放だけではない。

今晩は。rieruです。

聖書はキリストの十字架の死の目的を下記のように語っている。

「さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。」
‭‭ペテロの第一の手紙‬ ‭2:24‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/1pe.2.24.口語訳

キリストの十字架の第一の目的は人を神の罪の裁きから救う事である。しかし、それは十字架の死の目的の一部であり全部ではない。(もちろん罪の裁きからの救いは非常に大切な事であるが。)救いの先に「わたしたち(クリスチャン)が罪に死に、義に生きる」ことがキリストの十字架の死の目的である。

クリスチャンはこのことを常に胸に刻む必要がある。罪の救いを受けた事を喜びキリストに感謝していても、義について無頓着に生きてはならない。聖書の別の記事を読むと下記のようにクリスチャンの中にも「罪のさばきから解放されたのだから、罪を犯しても構わない」という考えをする人がいたようだ。

「それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。 あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。」
‭‭ローマ人への手紙‬ ‭6:15-16‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/rom.6.15-16.口語訳

しかし、それはキリストの十字架の死の意味からすれば大間違いである。だが、正直に告白するとrieru自身も「罪から解放された」という事実が怠惰な生活を誘発するという事は時に起こる。しかし、これは悪魔のささやきに負けているという厳粛な事実と向き合う必要がある。罪の裁きからの解放はその後の生活において義について無頓着である事を許容するわけではない。むしろキリストの十字架の死の意味を深く受け止めてなお一層義に対して充実な生活をすることがクリスチャンには求められる。

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