「そしてなお多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。 彼らは女に言った、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、わかったからである」。」
ヨハネによる福音書 4:41-42 口語訳
http://bible.com/1820/jhn.4.41-42.口語訳
これはヨハネの福音書でイエスキリストについて紹介されて信じた人達の言葉だが、ここに信仰について大事な真理が含まれているいる。それは「自分で聞く」ことだ。彼らはある1人の女性からイエスキリストについて紹介されたわけだが、それをきっかけに自分でイエスキリストの話を聞き吟味したのである。その結果、信じたのである。
人がイエスキリストを信じるためにはどんな形であれ自分で聞いて自分で考えるというプロセスが必要である。単なる伝聞を知識として蓄積してもそれは信仰ではない。知識で「イエス様は自分の救い主です。」と言えるだけでは信仰があるとは言えない。伝えられた福音を自分で聞いて自分ででそれが本当であるか考え、自分のものとして受け入れる。それが信仰である。けっして誰々の言うことだから正しいはずだという伝えた人の信仰に依存する姿勢ではいけない。自分が聖書と向き合い、聖書の福音の中にいるイエスキリストが自分の救い主だと自分で受けれなくではいけない。
そのためには自ら聖書の語る福音が真実であるかという点を関心を持ち聖書を調べ、聖書の語る福音を伝える者の語ることを吟味しなくてはならない。それをしてはじめて自分のものになる。
そして、それは信仰者になってからも変わらない。聖書の教えについて学ぶ時、聖書は何を語っているのかという想いを常に持ち、吟味して、聖書の教えを自分のにしないといけない。それがないと単なる聖書の教えに関する知識の蓄積があるだけで信仰の成長を遂げることはできない。信仰の成長がなければ信仰生活は悪魔に負け続ける惨めなものになってしまう。もちろんそれが永遠のいのちを失う結果をもたらす訳ではないが、それは本来クリスチャンにとってあってはいけない事だ。
常に自分で聖書と向き合い聖書の教えを自分のものとして主であるキリストに喜ばれる信仰生活を送りたいものである。