こんにちは。rieruです。
パウロは、「金銭を愛した」クリスチャンンについて以下のように語っている。
金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。
テモテへの第一の手紙 6:10 口語訳, bible.comより引用
信仰の道を進んでいるはずのクリスチャンが「金銭を愛し」て「信仰から迷い出」るというのはにわかに信じがたい話だが、2,000年前から起こっていたことである。金銭は人のあらゆる欲望と密接に関連している。金銭があれば今までできなかった事ができるようになる。それは人にとって誘惑の種であり、時にそれが不正につながる。それはクリスチャンとて例外ではなく、目の前にお金があればそれに手をつける可能性がある。そのことを聖書はハッキリ警告している。
金銭を愛すれば、神と人を愛せなくなる。人の愛は究極的には一方にしか向かない。クリスチャンは神を愛するという事が生活の基本にあるべきである。神を愛するからこそ神の命令である「隣人を愛する」ことを実行するようになる。しかし、そのクリスチャンがお金を愛するようになったら、神を愛することはないし、その結果「隣人を愛することもなくなる。」
クリスチャンとして何かしたいと思ったら金銭を調達することも必要になる。その金銭が与えられるよう神に求め、その結果与えられたものを用いることや、金銭面でも神が助けてくれることを信じて信仰の道を進むことは、クリスチャンとして正しい。しかし、いつの間にか「金銭の調達」が目的になり、その使い道も自分のために変わっていけば、それはクリスチャンとして相応しくない。
細かい話をすれば、金銭を追い求めるが故に、「神のために費やす時間や金銭がなくなる」ということがあるならば、それもクリスチャンとしては相応しくない。クリスチャンは常に自分の行動の「動機」を精査しなくてはいけないし、それが「お金」になる事とのないよう十分に気をつけなくてはいけない。
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