今晩は。rieruです。
先日下記の記事で神の創造物である自然に神の力を見る事ができるという事を書いた。
上記の記事は一般的に言えば「創造論」と言われる聖書の教えをベースとしている。聖書の教えが浸透していない日本ではいわゆる進化論と言われる考えが浸透していて、「神が天地を創造した」と言われてもピンとこない所がある。というか「そんなバカな話はない」という反応の方が一般的だ。そして、進化論は科学的で創造論は非科学的と思われがちだ。
しかし、本当のところ進化論も創造論もどっちを信じるかという同じ土俵にある話とrieruは考えている。勘違いしないで頂きたいが、rieruは進化論が科学的でないと言いたいのではない。進化論は科学的の叡智を結集されたもので一定の説得力はある。しかし、進化論は科学的には致命的な弱点がある。それは「再現実験ができない」ということだ。
しばらく前に理研の小保方さんという方が研究していたSTAP細胞なるものが実は存在しないものではないか?という騒動があった事を覚えておられるだろうか。あの問題が起こった時、大きな焦点は「再現実験が可能か否か」だった。科学の世界である学説や論文が事実であると認定されるためには再現実験ができなければならない。それができないならば、どんなに説得力があろうとも事実とは認められない。それが科学の原則だ。
進化論はこの再現実験という点では不可能な学説だ。仮にできたとしても物凄い時間がかかるので事実上不可能である。だから科学的には、進化論はいつまでたっても有力な仮説としか認定できない。
一方、創造論は全く非科学的なのかというとそうではない。科学の進歩によって「自然」と言われたものが実は物凄く精密にできていて人間の生きるのに必要な物を供給している事が分かるようになってきた。しかし、それでも解明できないメカニズムは未だに沢山ある。だから世界中の科学者はその未解明の真理を突き止めそれを人々の生活を良くしたいと願い日々実験を続けている。
一流の科学者が自然と言われるものを本気で研究しいるものの素晴らしいや精密さを考えたら、そこに「設計図と創造主がいない」という結論を出すのはあまりにも「非科学的」である。進化論はそこを気の遠くなる時間の経過のうちに「偶然できた」と理解する事で埋めているわけだが、それは本当に「科学的な結論」なのだろうか。そこに創造主がいて、創造主なる方の力が現れているという聖書の説明の方が「科学的」ではないだろうか。
rieru的には進化論より創造論の方が説得力があると考えている。ただし、この理屈だけでは結論は出ない。なぜなら、進化論ではなく、創造論を選択するとしても「誰が創造したか」という疑問には答えられないからだ。創造論が正しいとしても、「聖書の語る神」がその創造主であるとの確証はない。もしかしたら、聖書の語る神はフィクションで真実の創造主が別にいるかもしれない。この点に関してはもはや完成に信仰に領域だ。
rieruは、この点に関しての根拠は聖書の語る言葉の力だと考えている。rieruは若い頃の事にさんざん悩んだ。答えが出ず悶々とした日々を送った。そして出た答えは「聖書の言葉には力があって自分の心に刺さる」という事だった。その力がrieruの中で聖書の語る神こそ創造主であるという事の証拠だと受け入れた。だから、聖書の言葉を全て真実として受け入れる事にした。
これは理屈ではない。モチロンこれまで散々述べてきたように全く理屈なく単に信じるという話ではない。しかし、理論的検討の先に最後どちらを取るかという事は理屈ではなく信仰によって決断するしかない。天地の起源をどう理解するかはそういう問題だとrieruは思っている。最後に聖書の下記の言葉を紹介してこの記事を終わりたい。天地創造は信仰によって受け入れるものである。
「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。」
ヘブル人への手紙 11:3 口語訳
https://www.bible.com/1820/heb.11.3.口語訳