今日は。rieruです。
今日はいわゆる山上の垂訓と言われるマタイの福音書5-7章のキリストの教えについて。この教えの内容は非常に厳しい。下記はその代表例だがこれを完璧に実行できるという人は皆無と言っても差し支えない内容である。
「しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。」
マタイによる福音書 5:22 口語訳
https://www.bible.com/1820/mat.5.22.口語訳
「しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」
マタイによる福音書 5:28 口語訳
https://www.bible.com/1820/mat.5.28.口語訳
「『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」
マタイによる福音書 5:38-39 口語訳
https://www.bible.com/1820/mat.5.38-39.口語訳
だがこの教えは下記のように天国に行けるか否かを決める神の基準なので、それを実行できない事は人に取って重大な問題である。
「わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。」
マタイによる福音書 5:20 口語訳
https://www.bible.com/1820/mat.5.20.口語訳
人はこの教えに絶望してしなくてはならないのだろうか。実はそうではない。聖書はその神の基準に到達できない人を神が哀れんで「自分罪のために死んだキリストを信じる信仰による救い」を用意しているという事を伝えている。山上の垂訓はその過程に置ける教えであり、全ての人に自分が神の前に罪である事を知らしめるために書かれたものである。
ただし、だからと言って山上の垂訓は人が実行できないものとして無視して良い訳ではない。キリストを信じたクリスチャンはこのくらい教えを少しでも実行すべく最大限努力しないといけない。救われたクリスチャンはヨハネの福音書3章に書いてあるように新しく生まれる。これは人格的な変化であり、それによって山上の垂訓を実行できるポテンシャルを持つ。また、ローマ人への手紙8章が示すようにクリスチャンの内に住む聖霊の助けもある。山上の垂訓は新しく生まれ変わったクリスチャンが聖霊の助けによって実行でき得るものである。
でき得ると書いたのは完璧にはできない事も事実だからだ。新しく生まれ変わったクリスチャンも生まれながらの罪の性質自体は存続するのでその罪の性質が山上の垂訓の実行を妨げるからである。その事はローマ人への手紙の7章に詳しい。だが、それはそれで良いと言う事ではない。その事はクリスチャンが真剣に悩み苦しみ改善に努めなくてならない。山上の垂訓の実行は救いの条件にはならないが、自分の罪の問題の解決のために子供であるキリストを十字架の死にまで至らしめた神への感謝があれば当然なすべき事である。
信仰による救いは罪の裁きからの解放を意味するが、罪に対して無頓着である事を推奨しない。むしろ罪の裁きから解放されたものとして相応しく罪のない生活を志す事を求めている。その最高峰が山上の垂訓であり、クリスチャンこそこの教えを具現化する義務を負っている。
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