Categories: 聖書の教え

「神のさばき恐れること」と「神を恐れること」

おはようございます。rieruです。

聖書の黙示録を読むとやがて未来に行われる人の罪に対する神のさばきについて書かれている。その内容は壮絶なので、恐ろしくなる。そして、それを回避するために「クリスチャンになろうとする」人がいる。これは理屈としては正しい。聖書が語る神の罪のさばきを回避する方法はキリストを信じること(すなわちクリスチャンになること)だからだ。

しかしながら、この発想は若干危うい。なぜかというと「神のさばきを恐れること」と「神を恐れること」は別物だからである。黙示録に書かれていることは非常に具体的で、天災の局地のようなもので目に見えて苦しい。そしてそれを回避したいということを兎に角追及すると、「神の前に犯した罪の責任」に心が向かないからである。

黙示録に書かれている神のさばきは人の罪に起因する。キリストを信じるというのは自らが神の前に犯した罪に対する責任を感じること無くして成り立たない。キリストを信じるというのはキリストの十字架の死が自らの罪の身代わりの死であり、本来自らが受けるべきであった神の罪のさばきを代わりに受けたという事を心で受け入れるという事である。

そのためには、神の前に犯した罪への自覚が必要である。そして、それは「神のさばきの恐ろしさ」と「それを回避したい」という思いで心が一杯の時にそれは難しい。心が自分の方に向いていないので「自ら犯した神に対する罪」に思いを致すという事が疎かになりがちだからである。

そこから脱却するためには、「神のさばきの恐ろしさ」を感じた時に「なぜ神はさばきを行う権利があるのか」という事に心を向ける事だ。聖書はその理由を神が人を創った創造者であるからと明示している。神は創造者なので被造物である人に守るべきルールを定め、それに反したものをさばく権威がある。その権威の発露の一端が黙示録にある神のさばきなのである。そして、その権威の前に自らがさばかれるべき罪はないのかという事を自問自答するのである。それが聖書の語る救いへの一歩である。

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