昨日下記の記事でクリスチャンは時に未来に困難が待っているとしても、神のために突き進むべき時があり、それを実行する動機は神の恵みによって救われたことであるということ書いた。今日は動機の部分について別の即面について触れたい。
使徒パウロは以下のように述べている。
また、正しい者も正しくない者も、やがてよみがえるとの希望を、神を仰いでいだいているものです。この希望は、彼ら自身も持っているのです。 わたしはまた、神に対しまた人に対して、良心を責められることのないように、常に努めています。
使徒行伝 24:15-16 口語訳
bible.comより引用
ここには、人はどんな人でもよみがえる時がくることが示唆されている。パウロはそれに続いて「神に対しまた人に対して、良心を責められることのないように、常に努めて」いると語っている。人がよみがえる事と良心を責められないように生きる事は一見すると脈絡のない事が続いているように感じる。しかし、一つの事を知るとその繋がりが見えてくる。それは人がよみがえった時に神のさばき(ジャッジメント)を受けるという事である。よみがえった時、神は人の生涯について判断し、その生涯において成し遂げた事に応じて報いを与えられる。
上述の記事でも述べたようにクリスチャンは神の恵みによって罪の裁きとしての永遠の滅びからは救われている。しかし、救いを受けてからの生涯において成し遂げた事に応じで神の報い(報酬)がある。本来罪の裁きから救われただけでも十分なのだが、神は恵みによって神のために行ったことの多寡に応じで報いてくださる。その事を確信していたので、パウロは神の前に正しいことを行うということに細心の注意を払っていたのである。その中には先に述べたような「未来に困難が待っているとしてもそれが神の意向に沿うならばそれに向かって突き進むこと」も含まれる。
神が未来においてその生涯に成し遂げた事に応じて報いてくださる。それがクリスチャンが神の前に正しい事をする事の動機の一つである。
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