時にクリスチャンは未来に困難が待っていると分かっていても、神のためにそれを回避しないで突き進むことが求められる。

今晩は。rieruです。

聖書は使徒パウロが以下の言葉を語った事を記している。これは、預言者アガポによってエルサレムでパウロがユダヤ人によって捕縛される未来が待っていることが示された時、パウロの周りの人がエルサレムに行くことを止めるよう勧められた際に語られた言葉である。

その時パウロは答えた、「あなたがたは、泣いたり、わたしの心をくじいたりして、いったい、どうしようとするのか。わたしは、主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことをも覚悟しているのだ」。

‭‭使徒行伝‬ ‭21‬:‭13‬ 口語訳‬

bible.comより引用 

時にクリスチャンは未来に困難が待っていると分かっていても、神のためにそれを回避しないで突き進むことが求められる。例えば、今でも宗教上の理由でクリスチャンが迫害を受ける国というのは今でも存在している。しかし、それでもそこにクリスチャンは存在し信仰を貫き通している。かつて、日本もクリスチャンが迫害される時代があった。しかし、その時代にも信仰を守った人々がいた。

今の時代もクリスチャンとしての生きるための困難はしばしばある。小さいことだが、毎週日曜日に礼拝に行くというとクリスチャンでない方から驚かれる。毎週普通の人が休んでいる時間を礼拝のために使うというだけで身体的には大きな負担になる。それ以外にも日常的に信仰のために時間を使うとなると実際のところ身体的な負担は大きい。時にそれは職業を選ぶときに支障となる場合もあるし、日曜日すら休めない職場環境が続くようなら転職も視野に入れなければならない。教会のない国への長期赴任を求められるようなケースでも自らの出処進退を検討する必要がある。

当然のことながら、この世はクリスチャンであることを前提に動いているわけではない。それ故どんな環境にあろうともクリスチャンとして生きるうえでの困難は常にある。しかし、仮にそれを受けることが神の意向に沿うものであるならば、そこから逃げないことがクリスチャンには求められている。ただ、それは神の恵みによって永遠の滅びから救われたという事実を考えた時に小さいことである。クリスチャンもかつては罪故に永遠の滅びに行くことが当然の報いだった時代がある。しかし、その罪びとを救うために神はご自身の子であるキリストを十字架で死に至らしめた。救いはいのちの犠牲により成り立っている。自分が救われるためにいのちが犠牲になったという事実を考えると、クリスチャンとして神に意向に沿って生きるための困難があってもそれを避けるということは、クリスチャンにふさわしい事ではないのである。

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