聖書は、キリストの言葉として以下の言葉を記している。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
マタイによる福音書 11:28 新共同訳
https://www.bible.com/bible/1819/mat.11.28.%e6%96%b0%e5%85%b1%e5%90%8c%e8%a8%b3
行きにくさを感じて日々を過ごしている人にとっては福音である。もしかすると、クリスチャンでない人もこの言葉に触れてある種の「癒し」を感じている人がいるかもしれない。
しかしながら、この言葉は切り取られて誤解を受けやすい言葉である。確かに聖書は「キリストのもと」に永遠の平安がある事を語っている。だが、この永遠の平安を受けるためには「自らの罪」という汚いものとトコトン向き合うことが前提にある。
なぜかと言うと、すべての人が神の前に罪人であり、キリストに近づくためには自らの罪の問題への自覚と、その解決が求められるからである。
「自分が罪人なのか」「すべての人が罪人なのか」ということは聖書の語る基準に照らして冷静に判断するべきことなのでこのことが、自らに当てはまるか否かについては一旦判断を保留してもらって構わない。しかし、冒頭のキリストの言葉に興味を惹かれて「行きにくさの解決」のために聖書を読もうとと考える人がいたら、「その前提に罪の認識と罪の解決が必要」という事を念頭に置いて聖書を読んでほしい。
また、もう一つ大事なことは罪の問題を認識して一時的に更に苦しんだとしても聖書は「そのことの解決法」についても明確に教えてくれる書物であるということも併せて知って置いてほしい。
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