Categories: 福音聖書の教え

罪の贖い。

今晩はrieruです。

今日は昨日の続き。昨日下記の通りイエス・キリストが不正な裁判で死刑にされる事を甘んじて受け入れたという話を書いた。今日はなぜイエス・キリストがそれを受け入れたのかという事について書きたい。

それは罪の購いである。購いという言葉は少々一般的ではないが、償いと言い換えても良い。

「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。 彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられたが、それは、定められた時になされたあかしにほかならない。」
‭‭テモテへの第一の手紙‬ ‭2:5-6‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/1ti.2.5-6.口語訳

聖書はイエス・キリストが全ての人の贖い(あがない)のためにご自身をささげられたと証言している。このとき贖われたのは人の罪である。残念ながら全ての人は神の前に罪人である。いきなりそう言われても中々納得できるものではないが、聖書が語る罪とは日本で一般的に理解されている罪とは違う。聖書が語る罪については下記の記事を参照頂きたい。

この聖書の基準における罪に対する罰は一つしかない。それは死刑である。しかもその死刑は肉体ではなくたましいに対するものだ。その苦しみは永遠に続く。その苦しみから人が救われる方法は罪人の身代わりに罪のない方であるキリストが神の裁きを受けて死ぬ事だった。それが罪の贖いである。キリストは本来神の永遠の裁きに服すべき人の代わりに十字架で死んで下さった。それが十字架の本当の意味である。

イエス・キリストはその贖いをなすという目的で不正な裁判を甘んじて受け入れた。自分の罪のために神の子であるキリストが死んだという事実はクリスチャンに取ったとてつもなく重い。その重さを真に理解し、イエスという方が自分の罪の身代わりに死んでくださった救い主(すなわちキリスト)であると受け入れるものが救われてクリスチャンになる。何らかのキッカケでこの記事を読むことがクリスチャンでない人が1人でも多くイエス・キリストを心に受け入れ救われる事がrieruの願いである。

rieru

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