今日は。rieruです。
今日は「キリストがこの世に来た目的」について語りたい。聖書はキリストがこの世に来た目的を下記のように記している。
「「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。」
テモテへの第一の手紙 1:15 口語訳
https://www.bible.com/1820/1ti.1.15.口語訳
一般的に犯罪者に対する世間の目は冷たい。一度大きな罪を犯して法によって裁かれた人を世の中は受け入れない。仕事に就こうとしても犯罪歴が明らかになれば、基本的には難しくなる。特に何年も服役したような場合には社会の信用を取り戻す事は難しい。それは社会が厳しすぎるのかと言うとそうとも言えない。長期収監される程の犯罪は余程のことであり、そうして経緯のある人を社会が受け入れられないのはある意味当然の方だ。
しかし、キリストはそういう人を救うために来たと聖書は語っている。実際にキリストはこの世に来た時、「罪人」と呼ばれる人の所に積極的に出向き「自分が罪人のために来た」事を行動で示した。ヨハネの福音書4章のサマリヤの女、ルカの福音書19章のザアカイ、ルカの福音書15章の方等息子の例えが話された時にキリストの周りにいた人達、マルコの福音書の2章のレビとレビによって食事に招かれた人達などがキリストが訪ねた罪人の例である。
それだけでなく、それらの人達の罪の代償となるためにキリストは十字架にかかって身代わりとなった。十字架においてその人達が受けるべき神の裁きを代わりに受ける事により、キリストを救い主として信じる事で彼等の罪の裁きが許される道を開いた。それが「罪人を救うため」というキリストがこの世に来た目的を達成するために必要だった。
ところで、この事は今を生きる私達にも関係がある。冒頭引用した聖書の言葉には「わたしは、その罪人のかしらなのである。」と書かれている。これはこの言葉を記したパウロの事を指している。パウロは自分がキリストが救うためにきた「罪人の1人である」と認識していた。パウロの生きた時代にはキリストと接点はなかったが、キリストがこの世に来た目的は自分に関係があると確信していた。
キリストが救おうとしているのはキリストが生きた時代の罪人に限定されない。その罪人は全世界、全時代の罪人である。人は1人の例外もなく神の前に罪人である。人の目から見たら善人に見えても心のうちまで全て見ることができる神の前に善である人は1人もいない。その罪人を救うためにキリストはこの世に来て十字架で罪の償いをした。そのキリストを救い主として信じる人に罪の許しが与えられる。これは全ての人が真剣に考え受け止めるべき厳粛な事実である。
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