信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。” ヤコブの手紙 2:17 https://www.bible.com/bible/81/JAS.2.17
聖書の中で、信仰は行いが伴うものだと教えられている。クリスチャンに信仰に相応しい行いがないとすればそれは問題である。時にそれは、厳しい叱責の対象となることも当然である。しかし、行いは「信仰に伴う」ものであるということを忘れてはならない。信仰と切り離して「行い」が語られるとしたら、それは大変危険なことである。使徒パウロは聖書の中で以下のように述べている。
“しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。” ガラテヤ人への手紙 2:20 https://www.bible.com/bible/81/GAL.2.20
パウロは自分を愛して下さるイエス様を信じる信仰が、生きる原動力だと言っている。信仰を原動力として生きている人は結果として「行いが伴う」。自分を愛して下さるイエス様の存在を感じるので、イエス様に喜ばれる行いをしようという思いが起こる。それが「行い」として外に現れる。これが、クリスチャンの正常な姿である。
しかし、時にクリスチャンも信仰と行いとつないでいる思いが弱くなることがある。クリスチャンとなっても罪の性質は残っているので、罪が心の中を支配して、信仰を覆ってしまうことがある。「自分を愛いしてくださる方のために生きたい」という思いを罪が壊してしまうことがある。その時に、信仰の結果であるクリスチャンとしての正常な「行い」が欠けた状態となる。
その時に、信仰に付随する「行い」だけを強調して、教えても無意味である。「行い」という結果だけを求めて改善しようとしても苦しい思いをするだけである。「行い」の基である「信仰」が心を支配する状態をもう一度つくりあげていかなければ、真の意味で「行い」を改善することはできない。そのためには、もう一度聖書読んで、「自分にとってのイエス様とはどういう存在なのか」を確認することが必要である。
私も何度もクリスチャンとして恥ずかしい状態を経験してきた。自分の信仰生活はとても人様に公開できる程のものではない。しかし、どん底から何回も再生してきたことだけは間違いない。いつも聖書に立ち戻り、「わたしを愛して下さるイエス様」を再確認し、「信仰」という名のエンジンを修理して、弱い自分を再稼働してきた。
もし、これを読んでいるクリスチャンの中で、自分の「行い」を改善する必要を感じている人がいるなら、もう一度自分の根底にある「信仰」を見つめ直し、「信仰が自分の心を支配するよう」に努めて頂きたい。「行い」だけを切り離して改善することは絶対ににないのだから。