「すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。 」(聖書:ローマ人への手紙7章22-23節)
聖書を読むと、様々な「神の命令」が出てくる。人にとってこの命令を守ることは難しい。この命令を守る生活は人にとって苦しい。それは真実である。実はクリスチャンにとっても神の命令を守ることは難しい。また時にその命令が守れないことによって苦しむこともある。
しかし、クリスチャンはそれだけではない。上記の聖書の言葉に「内なる人としては神の律法を喜んでいる」とあるが、神の律法とは神の命令のことであり、クリスチャンにはそれを喜ぶ心がある。この神の命令を喜ぶ心は生まれながらの人にはない。イエス・キリストを救い主として信じる時に神から与えられるのである。
クリスチャンにとって、神の命令を守るとは、この神の命令を喜ぶ心強くしてそれを外に行動として現すということである。決して嫌々神の命令を守るわけではない。この心の鍛錬のためにクリスチャンは聖書を読み、祈り、クリスチャン同士で励ましあうのである。
この鍛錬が足りないと「肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしている」という上記の聖書の言葉のようになる。人に生まれながらに存在する罪の法則(神様の命令に逆らいたいという心)は、クリスチャンになっても存在する。それが、神の命令を喜ぶ心に戦いを挑み時にそれが勝ってしまう。そうなると神の命令を破ることになる。
これがクリスチャンの実態である。しかし、それでもクリスチャンは喜ぶのである。なぜなら
「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。
(聖書:ローマ人への手紙8章1-2節)
と確信しているからである。クリスチャンのこの世における状態によって、主イエス・キリストを信じる信仰による救い(永遠のいのち)は変わらない。いかに自分の状態がみじめでも神様は信仰をみて、イエス・キリストの十字架のゆえに救ってくださる。その確信がクリスチャンを慰める。そして、その事のゆえにもう一度自分の中の罪と戦う線上に戻り、神の命令を喜ぶ心で罪に立ち向かうのである。