今年の初めに、教会の用事で家族と上京する機会がありました。その際、我々の上京を知った妻の元同僚から会いたいという連絡があり、急遽会うことになりました。。そして、行ってみると、妻の元同僚が6人も集まってくれていました。実はこのような会合は今回が初めてではないのです。妻が退職したのはもう7年近く前になりますが、度々集まってくれています。私もそれに同行して妻の元同僚の何人かと顔見知りになってしまいました。7年も前に退職した人のために同僚が頻繁に集まるというのは中々ないケースでしょう。この会合に出席するたびに妻が元同僚から愛されていることを教えられます。彼らはいつも妻に会いたいと願い、そのために色々犠牲を払ってくれます。今回だって、忙しい中、我々の泊まるホテルの近くまで来てくれて近くのお店をセッティングしてくれたりしました。出席者の中には小さい子供を連れてご夫婦で参加してくれた方もいました。彼らが妻に会うために払った犠牲の大きさに私は愛を感じるのです。
ところで、クリスチャンは自分のために、言葉にできないくらい大きな犠牲を払って自分に愛を示された方を知っています。
‘主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。(聖書:ヨハネの第一の手紙 3章16節)
この聖書の言葉にある「主」とはイエス様のことです。「わたしたち」とは当時のクリスチャンです。クリスチャンはイエス様が自分のためにいのちを捨ててくださったことを知っています。イエス様は、人の罪を償うために十字架でいのちを捨ててくださいました。十字架で全ての人が神様から受けるべき罪のさばきを、変わって受けて下さいました。それ故に、イエス様は死なれました。ここにイエス様が人のために支払った犠牲があります。それはいのちでした。いのちさえも捨てるという犠牲にイエス様の愛が現わされています。クリスチャンはそのことを知った人です。それを知ったからこそ、イエス様を救い主として信じました。
この愛は、クリスチャンだけでなく、この世に住むすべての人に対して示されたものです。これをお読みのあなたに対してもイエス様の愛は示されています。あなたのためにもイエス様はいのちという犠牲を払って愛を現わしておられます。聖書を読むとその事実を知ることができます。誰かから愛されていることを知ることは人にとって限りない喜びです。本当に自分を愛してくれると確信できる人が一人でもいたら、その人の人生は豊かなものと言えるのではないでしょうか。
聖書の中には誰よりもあなたを愛しているイエス様がいます。問題はあなたがそれを知らないということです。それは人生の大きな損失です。聖書をお読みになって、あなたを愛してくださる方を知って頂きたいと思います。それを知ることはあなたの人生を根本から変える土台になります。是非、至高の愛をあなたに示しているイエス様を知る方となられますようお勧めします。