下記の聖書の言葉の通り、クリスチャンの妻は夫に従うことが求められている。
一見するとこの「従うこと」は昭和の日本にあった男尊女卑的な発想に見える。しかし、聖書の夫に従うの意味は全然違う。下記の言葉にあるように、夫にはキリストが教会を愛したように妻を愛することが求められている。
「妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。」
エペソ人への手紙 5:22 口語訳
http://bible.com/1820/eph.5.22.口語訳
「夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。」
エペソ人への手紙 5:25 口語訳
http://bible.com/1820/eph.5.25.口語訳
言うまでもなく、自分のいのちを捨てるほどに教会を愛したキリストに教会が従うと言う時に、嫌々とか我慢してという事はありえない。自分を限りなく愛してくれた方であるキリストの喜んで従うのである。夫に求められているキリストが教会を愛したように妻を愛する愛が完全に実現しているなら妻に従うことに我慢してとか言う事自体ありえない。。
ちなみに我が家では夫である私にキリストの愛程高いレベルの愛はない事が分かっているので妻に無言で従えという考えはない。むしろ私の至らならさについては積極的に指摘してもらっている。時にそれは言い合いになることもあるが、それも含めて私はそれで良いと思っている。その代わりに言い合いになってもとことん話し合い最後はお互いに納得した結論を出すことにしている。その話し合いが何時間かからろうとも最後までやる。それが我が家のやり方だ。
揉めてもお互い納得して従え結論であれば妻はそれを喜んでできる。本来は何も問題が起こらずに妻が喜んで従うことができたら良いが私にはそれがないので代わりに意見は言ってもらうようにしている。妻が夫に意見すると「従っていない」という印象があるかもしれないが、我が家においては夫である私がどんどん意見や要望を言うように望んでいるのだから問題ない。夫が望む事をしているのに従っていないとはならないからだ。
夫に従うとかありえないとか思う女性の方は安心して頂きたい。聖書の夫に従うと男尊女卑とは全く別物なので。