聖書は証言に対する信頼を求めている。
「アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。」
ルカによる福音書 16:29 口語訳
https://www.bible.com/1820/luk.16.29.口語訳
これは死後、神の裁きに服する金持ちが、アブラハムに対して、死者を蘇らせて証言させて家族をこの裁きから救って欲しいと願った事に対するアブラハムの返答である。アブラハムは死者をよみがえせるという奇跡があっても信じないものは信じない。モーセと預言者すなわち聖書の証言に耳を傾けるべきと返答した。間接的な証言に耳を傾けないなら、死者のよみがえりを直接見てもそれを信用できないのが人であると聖書は教えている。
「そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて 言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。 あなたがたは、これらの事の証人である。」
ルカによる福音書 24:45-48 口語訳
https://www.bible.com/1820/luk.24.45-48.口語訳
これは、イエス様がこの地上を去る時に弟子に残した言葉である。ここに弟子が「証人」になると言われている。何を証言するかという「よみがえり」である。弟子達はキリストの復活の証人であり、復活はイエス様が救い主である事の証拠である。この証言は一言で言うと福音そのものである。福音の一つの側面は証言であり、その証言を信頼する事がすなわち信仰である。
証言は常にその信頼性が問われる。裁判において、裁判官は証人の証言を信頼できるものか良く吟味して決断する。福音を信じるプロセスには聖書に記された証言の信頼性を読み手が吟味する事が必要である。裁判でなくとも、私達は他人がいう事が真実なのか色々な側面から検討し決断している。ただ、その吟味する時間や真剣度は事の大小により違う。判断を間違っても良い証言は対して吟味することなく受け入れる。しかし、ガンの告知と治療法とかなら皆当然良く考えて決断する。
聖書の福音に関して言えば永遠のいのちという問題だから、読み手は慎重に吟味する事が求められる。それが一考にも頭しないたわごとでない事は聖書を読めば理解できる。それが神の書である聖書の力である。日本語を母国語とするこの国において異国の宗教の本である聖書はさほど人に吟味される事のないものかもしれない。しかし、rieruは一度で良いので聖書を真剣に読み、聖書の証言に対する裁判官としての立場で吟味してもらいたいと願っている。その立場に立った時、人生が変わる事を経験として知っているからだ。