37イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 38これがいちばん大切な、第一のいましめである。 39第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。 40これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。 (聖書:マタイの福音書22章37節-40節)
前回創造主(である神)の意向を考える必要について、書きましたが、(前回はこちらhttp://rieru2000.com/2017/07/02/%E5%89%B5%E9%80%A0%E4%B8%BB%E3%81%AA%E3%82%8B%E7%A5%9E%E3%82%92%E4%BF%A1%E3%81%98%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/)
今回はその事について書きたいと思います。
神様の意向の中でまず大事なことは、上記の聖書の言葉です。それは「神と隣人を愛する」ことです。そして、それぞれ条件が付されていて、神を愛することについては「 心をつくし、精神をつくし、思いをつく」すこと、隣人については「自分を愛するように」です。これが神様が人に求めていることです。
結論から言うと、この二つのことを人は実行することができません。人はどこまでいっても自己中心的な存在なので、他人(又は神)を愛することができません。ある特定の人に対して愛を示すことはできても、全ての隣人にそれをすることは不可能です。学校や職場で隣の席に座った全ての人を思い浮かべた時に、そのすべてを自分と同じように愛していると言える人がいるでしょうか。また、人生のすべての場面で「神様を愛している」と宣言できる人もいないでしょう。
ちなみに、「神を愛することができない」という現実は「神を知らない」ことが原因ではありません。日本に生まれ育つと「創造主なる神」の存在を意識しないで育つ人も大勢います。しかし、その意識がないから神を愛せないのではありません。その事はクリスチャンの家庭で育った子供を見るとよく分かります。私もクリスチャンの家庭で育ち、神様の存在を知らされて育ちましたが、自分が信仰を持つまで神を愛することはできませんでした。(信仰を持っても神を愛することに困難を覚えることがあるのですが、その話はまたいつか)人は根本的に自己中心の存在なのでそれができないのです。このことは日本に育とうが、欧米のキリスト教国に育とうが変わりのない真実です。
そして、隣人を愛せないこと、神を愛せないこと、これらは、創造主なる神の前に「罪」です。私たちが通常思い浮かべる「罪」とはおよそかけ離れた世界のお話のように聞こえるかもしれませんが、これらは「罪」なのです。それが、この世を支配している神様が定めたルールです。日本には日本のルールがあり、欧米には欧米の、中国には中国のルールがありますが、神様の定めたルールは全世界に通用します。人の定めたルールを守ることも重要ですが、神様の定めたルールはもっと重要です。それが守れないとい現実は極めて深刻な事態です。
どのように深刻なのか。それはまた次回。