「善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。」
聖書ヨハネの福音書5章29節
「また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。 」
聖書、ヨハネの黙示録20章12節-15節
上記二つの箇所に「神様定めたルール」を犯した場合のさばきについて書かれています。ヨハネの福音書5章にでてくる「悪をおこな」うとは、神様の定めたルールを犯すことであり、そのさばきの様子がヨハネの黙示録に書かれています。これによれば、いのちの書に名の記されていない者が火の池に投げ込まれたとあります。いのちの書に名の記されていない者とは、「悪をおこなった者」すなわち神様の定めたルールを犯したもののことです。神様のルールを守れないものに対する神のさばきは「火の池」です。この火の池とはいわゆる地獄のことで、この火の池のさばきは永遠に続きます。このさばきは肉体の死後に行われるものです。人は肉体的に死んでも「たましい」は生きています。そしてヨハネの福音書に書いてあるように、いずれ、神様によって
「よみがえり」を経験します。よみがえった後、悪を行った者に対しては、火の池によるさばきが待っています。そしてこのさばきは永遠救われる余地はなく、火の中で苦しみ続けます。これが、神様の定めたルールを犯すことの厳しい代償です。
では、悪を行ったものはどうすれば良いのでしょうか。ただ絶望するしかないのでしょうか。そうではありません。聖書は神のさばきから救われる方法についても語っています。神のさばきの恐ろしさを認識するとともに、そこからの「救い」について目を留めて下さい。この救いについてはまた次回。書きたいと思います。