今晩は。rieruです。
「あなたはイエス・キリストを信じていますか?」という質問は時に危険である。基本的にはその問いにYESと答えられる者がクリスチャンなのだが時にこの問いは忖度を強いる可能性がある。クリスチャンの親を持つ子供の場合、この忖度の可能性が高まる。この問いにYESと答えて洗礼を受ける事が親の期待に応える事だからだ。クリスチャンの子供で精神的、経済的な面での独立が確保されていない状況でこの質問をした場合信仰がないのにYESと答える可能性がある事をクリスチャンは認識すべきである。
クリスチャンの子供の場合「イエス・キリストが救い主である。」と聖書が語っているという知識はほぼ全員が待っている。しかし、それと信仰とは別物である。聖書の語る救いの条件としての信仰単なる知識ではない。その事は下記の聖書の記載でよく分かる。
「では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」
ローマ人への手紙 10:8-9 口語訳
https://www.bible.com/1820/rom.10.8-9.口語訳
ここには信仰と関連して「イエスを主と告白」する事が語られている。一見すると信仰以外の要素が語られているがこれは信仰そのものの事を言っている。この箇所は「すなわち」という接続詞が使われていて、前半と後半は同じ事を示唆している。そして、前半の部分では言葉が心と口にある状態を指摘している。それを受けて後半で言葉とは福音であると追加の情報がもたらされている。しかし、前後は本質的に同じ意味内容だから福音という言葉が心と口にある時に人は救われていると聖書は語っていると理解すべきである。
そうは言っても信仰とイエスを主とする事は物理的にはイコールではない。ではどう解釈するべきか。イエス・キリストを本当の意味で信じたならばイエスを主する思いもそれに伴って自然に発生し、それが口に現れるというとrieruは解釈している。イエスが人の救い主になる為にはとんでもない犠牲が伴っている。それはイエス・キリスト自身の命である。しかも命をかけて救おうとした相手は神の前にどうしようもない言い訳のできない罪人なのだ。自分が神の前に極悪人であると認識し、その自分のために命を犠牲にして下った方がいる。その事の重大さを理解し、イエスをキリスト即ち救い主として受け入れた時に、同時にこの方のために残りの人生を捧げたいという思いが心に生じてそれが口に現れるのは自然の事だとrieruは理解している。だから信仰とイエスを主とする事がセットで語られている事に何ら疑問はない。
もちろんそれはrieruの経験であるという反論もあり得るが、それは信仰義認という真理を語ったローマ人への手紙の構成を考えるとその反論は成り立たない。ローマ人への手紙は信仰による救いを解説した書だが、信仰と救いについては1-5章で完結しており、そこにはイエスを主と告白するという要素はない。仮に信仰以外にイエスを主として告白するという要素が独立して必要ならば1-5章で記載されたはずである。10章はユダヤ人について書かれた部分の一部であり、信仰については補足的に書かれている。補足の部分で本質に関わる部分に何か条件が加わるとは考えにくく、1-5章の信仰と10章の記述は本質的に同じ事と考えべきである。そして、以上の事を前提とすれば、主として告白する話の前に言葉が心と口にある状態について言及されていているのだから、心にある信仰と口にある主として告白が本質的に同じものである理解するのが妥当である。
ここに単なる知識と信仰の本質的な違いがある。単なる知識からはイエスと主とする思いは生まれない。その知識は人の心を変えないからだ。知識には実感が伴わない。しかし、信仰には心を変える。こんな哀れな私を命を救って下さった方がいるという事への実感。それがあるから信仰と主として従うことがイコールの関係で結ばれる。
イエス・キリストを信じるプロセスにはイエス・キリストとの出会いが必要である。イエス・キリストは一度死んだが今は蘇って天におられる。そのイエス・キリストと聖書の言葉を通じて出会う事ができる。聖書の言葉は家のドアみたいなもので、そのドアを開けるとイエス・キリストの元へ行ける。物理的に身体がそこに行くのではない。あくまでも心の中での話しだ。そこで人はイエス・キリストの存在を実感するから信仰に至る。そこに至った時自然とイエスを主とする思いが生まれそれは口から出てくる。
その口から出るものは信仰の結果黙っていても出てくる。心の内にあるものは必ず外に現れる。それが聖書の原則だ。決して親の欲目で信仰をミスリードしてはいけない。本当に信じていれば必ずイエスを主として歩む決意として口に現れる。親は聖書が何と語っているかを伝え、時を待たなければならない。むしろ、口先だけ「イエス様を信じます」と言っても疑うべきだ。それがイエス・キリスト様の為に仕えたい、自分の為に死んで下さった方の為に生きたい、という思いに昇華している様子がないならそれは本当の信仰か疑わしい。クリスチャンの家で育つ場合信仰について忖度が生じうるので、子供の信仰を良く吟味する姿勢がないと信仰をミスリードしてしまう。それは絶対にあってはならない。なぜならそれは、子供に「救われていないのにキリストに仕える」という苦行を課し、永遠の滅びに至るリスクを負わせる行為だからである。