今晩はrieruです。
今日はクリスチャンが成長する為に必要な一つの事を語りたい。それは「救いについて主張する事」である。まずは下記の聖書の言葉をご覧いただきたい。
「ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、 わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。 この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。 これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。 この言葉は確実である。わたしは、あなたがそれらのことを主張するのを願っている。それは、神を信じている者たちが、努めて良いわざを励むことを心がけるようになるためである。これは良いことであって、人々の益となる。」
テトスへの手紙 3:4-8 口語訳
https://www.bible.com/1820/tit.3.4-8.口語訳
この箇所の前半はクリスチャンの救いがどんなものであるかという事を説明している。この説明はクリスチャンがクリスチャンに対して行っている。クリスチャンが既に受けたものである救いについて説明する必要があるのだろうか?という疑問は最もである。しかし、rieruはその必要があると断言する。その事は上記の聖書の言葉の後半部分から明確である。再度上記の言葉の後半部分を引用すると下記のようになる。
わたしは、あなたがそれらのことを主張するのを願っている。それは、神を信じている者たちが、努めて良いわざを励むことを心がけるようになるためである。これは良いことであって、人々の益となる。」
「わたし」とは使徒パウロの事であり、パウロはクリスチャンに対して、自分の受けた救いについて「主張する」事を望んでいる。そしてその目的は「神を信じている者たちが、努めて良いわざを励むことを心がけるようになるため」である。救いについて主張する事と「良わざに励むこと」になんの関係があるのだろうか。一見すると関係ない事のように思われるがそれは違う。
救いについて主張するようになる為には救いについて良く理解する必要がある。モチロン、クリスチャンは救われた時にその意味は知らされているわけだが、それを外に対して主張する為にはより深い理解が必要になる。それを理解する過程でクリスチャンはより深く救いの意味を理解するのである。聖書の語るイエス・キリストを信じる事による救いの意味は計り知れない程重い。自分が犯してきた罪の神に対する責任の重さと、その刑罰が過ぎ去る為に神とキリストが払って下さった犠牲の大きさ。その救いによって与えられたものの素晴らしさ。これらの事はどんなに知り尽くしたと思ってもその先がある。クリスチャンは救いを受ける過程で救いについて良く知った上で信仰を持つのだが、それでも足りない。
その理解が深まる時、人は神とキリストによって与えられたものの大きさとそのために払われた犠牲に感謝して、神とキリストが喜ばれる良い技を成したいと願うようになる。また、救いについて主張するクリスチャンの言葉を聞いた周りのクリスチャンもまたその言葉によって救いの理解が深まり良いわざに励むようになる。これこそ、クリスチャンの成長である。上記の聖書の言葉その事を教えているのである。