今晩はrieruです。
今日は昨日の続きを少し。昨日の下記の記事で「神の助けは絶望的な時に来る」という事を書いた。
しかし、この記事はrieruの経験であり、クリスチャン全員に当てはまるかは微妙な事例だった。その後聖書を読んでいたところ、関連する記述を見つけたので紹介したい。それは下記の箇所である。
「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。 このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」
コリント人への第二の手紙 12:7-10 口語訳
https://www.bible.com/1820/2co.12.7-10.口語訳
この箇所は使徒パウロが特別な経験を与えられた代わり、神から与えられたに肉体の弱さ(障がい)を取り除いて下さるよう願った時の事が書かれている。その事に対する神の答えは「弱さのうちに神の力が現れる」であり、パウロが特別な経験のゆえに高慢にならないようにという事だった。
ある意味、クリスチャンが神の助けを頂くというのは特別な体験であり、高慢になる可能性がある。クリスチャンが何の苦労もせず社会で生きる道が開かれたら、自分の力で成功したかのような錯覚と共に高慢が生まれる。それ避けるために神はクリスチャンに特別な力を働かせる時にはその前に人の弱さを存分に理解させるような経験をさせるとすると、その意味が良く理解できる。その苦い経験こそ、パウロのケースにおける肉体の弱さに相当なするのである。
rieruの場合で言えば、安定した職を与えるまでに苦労した経験は自分の弱さを知らされる経験であり、rieruが高慢にならないための経験だった。そう理解すると腑に落ちる。パウロに与えられた肉体の弱さの意味を考えると、絶望的な状況で神の助けがあるのは、クリスチャンが高慢にならないためと理解するのが適当ではないだろうか。