完全に平等な神の評価

今日は、rieruです。

何かを評価する時に、「結果だけで評価すべきか、過程も評価すべきか」というのはある意味永遠のでテーマである。基本的にこの問いに関する絶対の正解はない。なぜなら、情報が不完全だからである。

総論としては結果と過程には一定の相関がある事は間違いないが、各論になれば関連しないケースもある。その過程が複雑で有ればある程結果と過程に相関関係が成立しない事も多い。結果だけで判断すれば、正しい過程を通った者だけが評価するということを保証できない。しかし、過程を含めて評価しようとしたらうまく行くかというとそうではない。人は他人の全てを見る方ができない。だから、他人のやり方の全てを正しく評価する事はできない。

しかし、神にとってはそうではない。まず下記の聖書の言葉をお読みいただきたい。

「ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。 そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。 みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。」
‭‭マルコによる福音書‬ ‭12:42-44‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/mrk.12.42-44.口語訳

少し解説するとレプタは当時の最初通貨である。2レプタは今で言えば2円である。人の世界で2円が評価される可能性はほとんどない。あるとしても「気持ち」をやり取りできるだけで、実際的な力にはならない。しかし、キリストだけがこの2円の価値を知っていた。このやもめにとって2円は生活費の全てでありとても貴重だった。それをキリストは評価した。

この出来事は、神は他人には見えない過程を完璧に評価するということを教えている。神の前にたった2円でも、それが捧げる人にとって大事なものであるならば、その捧げ物は神に喜ばれる。神は物理的に他人に何かを解決してもらう必要はない。だから、「2円では何も解決しない」という問題もない。神にとって大事なことはその人がどれだけの犠牲を払ったのかという事だ。その犠牲の大小は目に見える量ではなく、心の量で測られる。結果ではなく過程を完全に評価できる。だから神の評価は本当に平等なのである。

クリスチャンは神のために出来る事だけやれば良い。しかし、できるうちで最大の努力をしなくてはならない。努力をすれば結果は問われない。結果が小さくてもそこにできる限りの努力があれば神に評価される。rieruも神のためにできる最大限の事をしたいと思う。

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