Categories: 聖書の教え

霊的に先輩が後輩のために蓄える責任と後輩がそれを自分のものにする責任。

今日は。rieruです。

今日は、先輩が後輩のために蓄えるという事について書きたい。まずは下記の聖書の言葉をお読みいただき汰い。

「さて、わたしは今、三度目にあなたがたの所に行く用意をしている。しかし、負担はかけないつもりである。わたしの求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身なのだから。いったい、子供は親のために財をたくわえて置く必要はなく、親が子供のためにたくわえて置くべきである。」
‭‭コリント人への第二の手紙‬ ‭12:14‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/2co.12.14.口語訳

これは、使徒パウロがコリントの教会に当てて書いた手紙の一節だが、パウロがこの部分で直接言及してるのは「経済的な面」において先輩が後輩のために蓄えるべきという事である。この事はもちろん大事な原則だが、rieru的には最近この原則は「霊的なもの」についても当てはめるべきと感じている。

例えば、先輩が数十年かけて学んだ聖書の教えを凝縮して後輩に伝え、それを後輩が自分のものにするならば、10年単位の時間の節約になる。その節約した時間で更に高みを目指すことができるならば、それはクリスチャン全体にとって大きな前進である。

下記の聖書の言葉が示しているように、使徒パウロは丸三年間エペソにある教会のクリスチャンを教えさとした。

‘そこでパウロは、ミレトからエペソに使をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。 だから、目をさましていなさい。(中略)そして、わたしが三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりびとりを絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい。 ‘
使徒行伝 20:17,31
https://my.bible.com/bible/1820/ACT.20.17,31

この三年間の教えは先輩であるパウロが後輩であるエペソの教会のクリスチャンに「蓄えたもの」だった。残念ながら、おそらくパウロがエペソの教会のクリスチャンを教えさとした後に書かれたと推定される下記の部分を読むとエペソの教会のクリスチャンはパウロの教えを十分に自分のものとすることができなかったようである。

‘エペソにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。 『右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の間を歩く者が、次のように言われる。(中略) しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。 ‘
ヨハネの黙示録 2:1,4
https://my.bible.com/bible/1820/REV.2.1,4

しかし、そのことが霊的に「先輩が後輩に蓄えるべき」ということをないがしろにする理由にはならない。先輩は後輩に対して霊的に蓄えてそれを提供しなくてはならない。後輩はそれを十分に咀嚼して自分のものにする責任がある。(エペソの教会では後者の責任が十分果たされなかった。)先輩の蓄える責任と後輩のそれを自分のものにする責任双方が正しく機能している時、「クリスチャン全体の」成長がある。

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