今晩は。rieruです。
使徒パウロや使徒ペテロというのはクリスチャンでなくとも名前ぐらいは知っているという人も多い。彼等はそれぐらいクリスチャンの中でも有名で、神に特に良く用いられた。しかし、彼等は完璧な人ではない。ペテロはキリストが十字架につけられるべく身柄を拘束された時、敵から「あなたはキリストの弟子か?」と問われてキリストを「知らない」と3度も宣言した。パウロはクリスチャンになるまえクリスチャンを迫害する者だった。時にはクリスチャンを殺した事もある。一般的な感覚からすればこのような者を重用するというのはあまりない。もっと脛に傷のない者を使いたいと思うのが普通である。
しかし、神は後ろ指を刺されるような者を非常に用いた。そこには意味がある。すくなくともrieruはそう考えている。一つには神の赦しは絶対である事を示すためである。神はどんな罪人でも福音を信じるなら救う。これが神の赦しだが、神はその事を脛に傷のあるペテロやパウロを用いる事でそれが絶対のものであると宣言している。人の間では赦すという事に限度がある。いくら改心しても仲間を殺したようなものは受け入れられない。窮地に陥ったからといって自分の事を知らないという者を赦すことも難しい。しかし、神の赦しはそういう次元のものではない。その事を知らせる宣言するためにペテロ達が神に用いられたのである。
もう一つは人を崇めない為である。ひとは目に見えない神ではなく目に見える人を崇めやすいものである。神に用いられてその働きにおいて顕著な実績の有る者が欠点がないように見えたらその人を拝んでしまう。そういう危険がある。だから神は敢えて誰か目にも明らかに欠点のある人を用いられた。仮に、パウロやペテロを神格化している人がいるなら良く聖書を読む必要がある彼等とて欠点のある人に過ぎない。崇めるべきは以外にあってはならない。
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