今晩は。rieruです。
今日はクリスチャンは実生活の中で事実を持って証を立てる必要があることについて。まずは下記の聖書の言葉をお読みいただきたい。
「言った、「あの人たちを、どうしたらよかろうか。彼らによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムの住民全体に知れわたっているので、否定しようもない。 ただ、これ以上このことが民衆の間にひろまらないように、今後はこの名によって、いっさいだれにも語ってはいけないと、おどしてやろうではないか」。」
使徒行伝 4:16-17 口語訳
https://www.bible.com/1820/act.4.16-17.口語訳
これは使徒ペテロの伝道に反対する人達の語った言葉であるが、ここで言う「彼らによって著しいしるしが行われた」とはペテロが生まれつき足の効かない人の足瞬時に癒すという奇跡を行った事を指す。その事実はペテロの伝道に反対する者も否定できなかった。その事実は彼らが神から出たものである証明なので、反対者も彼らを根本的に否定はできなかった。それゆえに反対者は「語るな」という命令を出して隠蔽を図る事ができなかった。
ある意味で今を生きるクリスチャンもそうでなくてはいけない。勿論物理的にいわゆる奇跡を起こせというここではない。クリスチャンの生活をクリスチャン以外の者が見た時に、「何かが違う」と思ってもらえるような事実があるべきという事である。クリスチャンは聖霊によって心の中に新しい命を受ける。その心の変化によってそれまでとは違った生き方をするようになる。言い換えると価値判断に変化が起きる。その事が他人の目から見て「神に属する人はこんなにも違うものか」と思ってもらえるほど明らかでなければいけない。
ベテロの行った奇跡という事実によって反対者が隠蔽しかできなくなったように、クリスチャンは自分の生きている人生がクリスチャン以外の人とは違う価値観を前提に動いている事実が、誰の目にも明らかでなくてはいけない。それがクリスチャンの証のスタートと地点である。
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