今晩は。rieruです。
聖書の語る福音はすべての人に取って良い知らせである事は紛れもない事実だが、それには「生きている」という前提条件が付く。人はどんなに大きな罪を犯しても神の前に許される道がある。その道こそ福音である。しかし、それは生きている間しか開かれていない道である。人が罪を抱えたまま死んだならばその道は永遠に閉ざされる。それは厳粛な事実であり何人も変えることができない。そこにはある種の厳しさがある。
人によってはそれは「厳しすぎる」と感じる方もおられるかもしれない。だが、神の前における罪という問題の本質を考えるとき少し違う光景が見えてくる。人は神に創られた存在である。それにもかかわらず、神を無視して生きて神の嫌う罪を犯す。この事実は即座に永遠に続く火の池に投げ込まれても文句の言えない大罪である。しかしながら、それでも神は人を裁くのではなく、人の救いのために自分のひとり子であるキリストを十字架で死に至らしめるという犠牲を払った。それは神の限りなく大きい愛のゆえである。
そこまで神が愛によって救いを用意したのに、それを無視し続けて死ぬ時を迎えるならば、神がその人に対して救いの道を閉ざしても文句は言えない。それが神の前における人の立場である。
だからこそ、クリスチャンはこの世を生きている間、福音を伝ることに必死にならなくてはいけない。人が罪の問題を解決しないまま死んだならば手遅れだからである。
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