Categories: 聖書の教え

見ないで信じる事について

今晩は。rieruです。

ヨハネの福音書に「信じる」という事について下記のような記述がある。

「それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭20:27-29‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/jhn.20.27-29.口語訳

時にここの箇所について、「見ないで信ずる者は、さいわい」とあり、かつ現代のクリスチャンは皆「(キリストを直接)見ずに信じる」者なので、直接キリストを見た弟子たちとは立場が違うという事を主張される。(少なくともrieruの周りではそういうクリスチャンがいる。)しかし、よく前後を読むと「復活したキリストを直接見て信じる事」とトマスに求められた「見ないで信ずる事」の間に本質的な違いはない。まず、キリストを見た弟子たちには下記のように記っている。

「イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭20:21‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/jhn.20.21.口語訳

トマスについても下記のように語っている。

「八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭20:26‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/jhn.20.26.口語訳

ポイントは「安かれ」という言葉である。これは「安心しなさい」という意味である。キリストが十字架で殺された後、弟子たちはキリストを殺した人々に自分たちも殺されるという恐怖を覚えていた。この時キリストが弟子たちに自らの姿を見せた目的はその弟子たちに「安心」を与えるためだった。その目的はトマスにもキリストを直接見た弟子たちに対しても同じである。仮にトマスに求められた「見ないで信じる」が見て信じた弟子たちと質的に違うものであれば「安心」はありえない。例えばトマスが「弟子たちが直接あったのだから「おそらく」キリストの復活は事実なのだろう」と考えたとしても、そこには不安が付きまとう。「証言があるのだからキリストを復活したに違いない」と自らを説得するような状態であっても同様である。トマスには他の弟子の証言によって「キリストが復活した」となんの疑いもなく確信しなければ不安は解消しない。

弟子たちの不安解消という観点からすると、「見る」「見ない」という方法論の違いはあるが、その「到達点」については一致していなければならない。もちろん「見ないで信じる」ことをキリストはより喜ばれるわけなので、それを目指すことは問題ない。(というか今の私たちはこの方法しかない。)しかし、その方法論の違いによって到達点である「信仰」に差異はない。それをあるかのように語る事は、「キリストを信じ信仰」をゆがめる事なので現に慎むべきことである。

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