おはようございます。rieruです。
今日は、「見ずに信じる事」について。
「イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。」
ヨハネによる福音書 20:29 口語訳
https://www.bible.com/1820/jhn.20.29.口語訳
これは、キリストの復活の時にトマスという弟子に語られた言葉である。復活したキリストが弟子達に姿を現した時にトマスはそこにいなかった。トマスは他の弟子達から「キリストが復活した」と聞いてもそれを信じる事ができなかった。そこで、キリストがトマスに直接会って復活を信じるように即した。そして冒頭の言葉が語られた。
現代では、人が救われて永遠のいのちを自分のものとするためには「見ずに信じる事」が求められる。なぜならキリストは今肉体を持ってこの世を生きる事がないからだ。キリストを肉眼の目で見る事はできない。その意味でクリスチャンは皆「見ずに信じた」と言える。
しかし、これはあやふやなものを闇雲に信じる事を意味しない。トマスが求められた事は「他の弟子達の証言」を信じる事だった。当時の弟子達の言葉には力があったに違いない。なぜなら絶望のどん底にいたところにキリストが生きて帰って来たのだからその驚きと感動は計り知れないものがあり、それが弟子たちの言葉に力を与えるからである。そう考えると、トマスが心を開いてそれを聞くならば信じることは決して難しい話ではない。
今、人が救われるために求められている事とトマスに求められている事に致命的な差はない。なぜなら、この時キリストの復活を証言した弟子達の証言と同じだけの力を持った証言が今も存在するからだ。それは聖書の言葉である。聖書はキリストの十字架に関する証言で満ち溢れている。人が心を開いてその言葉を吟味する時に、キリスト十字架の意味を読み手が信じるに足る力を聖書は持っている。
rieruは人がキリストを信じて救われるか否かの違いは聖書と真剣に向かったかどうかの違いであると考えている。トマスのように「そんなことはあり得ない」と拒否するのではなく、「聖書の語ることが真実か否かを見極めよう」という姿勢を持って聖書と向き合えばだれでもキリストを信じることになる。なぜなら、聖書の言葉には復活のキリストを直接見た弟子たちの言葉と同様の力があるからだ。だから、rieruは聖書の語る救いに少しでも興味のある人には「自分で聖書を読んで聖書の語る言葉の力を実感すること」を進めている。仮にこれを読んでいる人の中にそういう人がいるならば、是非自ら聖書を読むで見ることをお勧めしたい。
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