今日は。rieruです。
使徒の時代の初めにクリスチャンが「異言」を語るという事出来事があった。(使徒の働き2章)異言とは勉強した事もない外国語を話せる事であり、これは「聖霊が人に宿る(救われる)」という事を象徴的に教えるものである。この時代はまだ聖書が完成していなかったので、神は異言という奇跡的な方法でクリスチャンの救いの証明をした。今の時代は聖書によって人の救いを判断できるのでこの異言は役割を終えたのだが、この異言から今の時代の境界を得る事はできる。
クリスチャンの福音伝道とは少なからず「異言」でなくてはいけない。もちろん相手が意味を理解できない外国語で話すという意味ではない。福音伝道は相手が理解できる事は大前提である。しかし、その言葉の根底に「キリストがいる」という事がクリスチャン以外の人が感じられる事が必要である。その言葉の下にあるものが「キリストである」とハッキリ分からなくても「この人の内側に自分と違う原理がある」と理解できるように語らなくてはいけない。話している言語そのものは同一であっても、その言葉の源泉になるもの(原理)が「違う」という意味で福音は異なる言葉すなわち「異言」である必要がある。
上記のような意味でクリスチャンの語る福音が「異言」であるためには単に知識として聖書を理解するだけでは不可能である。それができるためには日々生活の中でキリストの素晴らしさを「体験する事」が必要である。クリスチャンはキリストを信じる時に聖霊が内住し、霊があたらしく生まれる。その霊に置いて聖霊の助けにより、聖書の言葉を通してキリストの素晴らしさを日々体験する。それを元に語る福音には力がある。その力こそ、福音の聞き手が感じる「違い」であり、福音を「異言」にするのである。
それは非常に美味しい飲食店の料理についてガイドブックや食べログの情報だけで伝えるのか、実際に食べた上で伝えるのかという違いのようなものである。前者は知識だけで語っているが、後者は経験を元に語っている。後者でないと福音は異言にならない。それはクリスチャンが福音を語る時に注意すべきである。そうなるためには日々聖書を読みキリストの素晴らしさを経験し続けなくてはいけない。頭の中での知識で話すことはある程度サボっていてもできるが、それには力がない。日々自らのこころがキリストを向いていなければその力出てこない。そこはサボってはいけないのである。
一つだけ補足するとこういうことを言うと「キリストを知った事を喜んだという自らの経験」を延々とかたらヒトが出てくるのだが、それも間違っている。福音は「語る人がどんなにキリストについて感動したか」ではなく、「自らの喜びを与えてくれたキリストの素晴らしさ」について語るのである。福音の主題は常にキリストである。語る内容は誰が語っても対して変わらない。しかし、同じ内容でもキリストの素晴らしさを日々経験している人が語る時にはそこに力がある。その力の有無こそ、福音の本質である。
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