今日は。rieruです。
先日聖書の中に出てくる報道息子の例えを通して、神に対する悔い改めとキリストという道を歩いて神の元に帰るという事を書いた。
今日はその事について少し補足したい。神に対する悔い改めと神の元に帰る事は極めて密接な関係があるが別の事である。この事を理解しないと聖書の語る救いを正確に理解したとは言えない。また、時にそれは救いを得ることはできないという深刻な問題を生じる。
神に対する悔い改めは救いに必須であるが、それだけでは救われない。救いの必要条件ではあるが十分条件ではない。神に対する悔い改めは神に背を向けて歩いていた人が神の方に心を向けるという事である。その時、放蕩息子が父の元に帰るためには罪という問題がある事を知る。それは救いに不可欠だがそれだけでは救われない。救われるためには放蕩息子が、実際に父の元に帰ったように、キリストという道を歩いて父なる神の元に帰えらなくてはならない。それは具体的にはキリストを救い主として受け入れる事が必要である。
通常は神の方に心を向ければ、罪の問題を解決したいと願うようになり、キリストを信じることは当然の結論である。だが、それが当然のことだからと言ってその事をクリスチャンの側がしっかり語らないと、神の方に心を向けたは良いけどキリストを信じていないという事態が起こり得る。人が神の方に心を向ければ、多少なりとも行動を改める。流石に真剣に神の方を向けば自分の生活が罪にまみれている事を理解し反省するからだ。そうした変化を見るとクリスチャンの側が「キリストを信じた結果神によって変えられた」と勘違いしてしまう事がある。
しかし、それは救いではない。なぜならキリストを信じて過去の罪の解決がなされていないからだ。クリスチャンが救いに至る過程の初めに神に対する悔い改めについて語る事は大事である。しかし、それはキリストに対する信仰の前座である。人の心が神に向いたならそこで神に対する悔い改めと同じぐらいの量と質でキリストを信じるべき事を語らなくてはいけない。
キリスト教国でない日本における福音伝道に置いては神という概念自体を説明する事から始めないといけないという制約があるので、どうしても神に対する悔い改めに重きを置かれがちである。それは大事な事なのだがの先の福音の本体であるキリストに対する信仰が疎かになってはいけない。その結果、神に対する悔い改めによってその人の行動が変わったというところで止まってしまうという不幸な事が起こっているように感じる。
そうだとするとそれは大変危険な事だ。そうならないためにはクリスチャンの側がキリストに対する信仰について神に対する悔い改めと同じぐらいの熱を持って語らないといけない。そして、その部分について十分に語っていないのに「キリストを信じました」という告白があっても無闇に信用しないようにすべきである。そういうケースではその人にどのようにして信じたのかという過程をその人自身に語らせる事である。その過程を知れば、その人がどのようにキリストの事を理解しているか分かる。本当の信仰者であれば言葉は拙くてもキリストへの熱い思いがそこにある。決して口先だけでない心からの言葉かどうかというのはそれなりの時間をかけて話し合えば自ずと分かる。聖書の語る救いは最終的には人とキリストの深い人格的な交流の上に生じる個人的関係による。それは単なる知識としてキリストが救い主と知る事とは全く違う深みのあるものだ。それは言葉ではなくクリスチャンの肌感覚として理解するものである。その違いを無視すると神に対する悔い改めとキリストに対する信仰の違いが分からなくなる。
これを読んでいて、信仰をお持ちでなく、福音語る福音に興味がある方には、神の方を向く事と信仰は別物であるという前提で福音を聞いてほしい。そして、自分の心が神の方に向いた時、「ここからが一番大事」という意識を持ってほしいと思う。
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