今日は。rieruです。
今日は、聖書の中でクリスチャンが「奇跡を行った」と記されていることについて語りたい。これを聴くと読者の中には「初期のクリスチャンが奇跡を行う力があったのになぜ今はないのか?」という疑問を持つ方もおられるように思う。今日はその疑問に関するrieruの考え方についてお話ししたい。まず奇跡については下記のように記されている。
「ところが、信じなかったユダヤ人たちは異邦人たちをそそのかして、兄弟たちに対して悪意をいだかせた。 それにもかかわらず、ふたりは長い期間をそこで過ごして、大胆に主のことを語った。主は、彼らの手によってしるしと奇跡とを行わせ、そのめぐみの言葉をあかしされた。」
使徒行伝 14:2-3 口語訳
https://www.bible.com/1820/act.14.2-3.口語訳
ここに、「主は、彼らの手によってしるしと奇跡とを行わせ」とある。この「主」とはキリスト(あるいは神)の事である。「彼ら」とはパウロとバルナバというクリスチャンである。その目的は「そのめぐみの言葉をあかし」する事だった。「めぐみの言葉」とは福音である。この福音を「あかし」するために「しるしと奇跡」をキリストがクリスチャンに力を与えて行わせたというのが、上記の言葉の意味である。即ちしるしと奇跡には「この人たちの語る福音は本物である」という証拠として特別に人に与えられたものだということである。それは人々が福音を信じるためである。
ところで、この「しるし」の一つに「異言」というものがある。異言とは学習していない外国語を突然話すことができるようになるという人の常識ではありえない現象のことである。この異言について聖書は下記のように記している。
「このように、異言は信者のためではなく未信者のためのしるしであるが、預言は未信者のためではなく信者のためのしるしである。」
コリント人への第一の手紙 14:22 口語訳
https://www.bible.com/1820/1co.14.22.口語訳
これは「異言は、クリスチャン以外の人がクリスチャンがキリスト(あるいは神)から特別な力が与えられているという事実を見て、クリスチャンの語る福音の正当性(真実性)を感じて福音を信じるため」にあるという意味である。その異言について下記の聖書は別の箇所で下記のように語る。
「愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。 なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。 全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。」
コリント人への第一の手紙 13:8-10 口語訳
https://www.bible.com/1820/1co.13.8-10.口語訳
異言はすたれる。それは「全きものが来る」からである。全きものとは聖書の事である。聖書は神の意思を明確に人に伝えるものである。その言葉には欠けるところがない。神の言葉である福音も含まれる。福音について完ぺきに人に伝えるものが存在するのようになった時異言というしるしの役割は終わった。ところで、冒頭の箇所によれば、しるしと奇跡は福音を人が信じるためにクリスチャン特別に与えれらえた力である。異言以外のしるしと奇跡も異言と同様の目的を持つものである。だとすれば、異言がすたれたならば、異言以外のしるしと奇跡も同様に役割を終えすたれるもの当然であるとrieruは考えている。
ブログ村のランキングに参加参加しました。本記事を評価頂けるようであれば、本ブログを応援する意味も込めて下記のバナーをクリックして頂けると幸いです。
にほんブログ村
本ブログはコメント欄を設けておりません。コメントがある場合は、お手数ですが下記のツイートのリプでお願いします。