今日は。rieruです。
聖書は下記のようにキリストを信じない者は既にさばかれていると語っている。
「彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。 そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。」
ヨハネによる福音書 3:18-19 口語訳
https://bible.com/bible/1820/jhn.3.18-19.口語訳
この事を聞くと多くの人は不思議に思うのではないだろうか。今、現在自分がさばきを受けている実感はないからだ。例えば、何かの罪で服役でもしていたらそういう感覚になる訳だが、そうでない人に取っては実感のない話である。そのギャップを埋めるためには、初めの等しいアダムの時代の事を振り返る必要がある。最初のアダムとエバが罪を犯した時、神は罪の報いとして(さばきとして)下記の事を与えた。
「つぎに女に言われた、 「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。 あなたは苦しんで子を産む。 それでもなお、あなたは夫を慕い、 彼はあなたを治めるであろう」。 更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、 地はあなたのためにのろわれ、 あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、 あなたは野の草を食べるであろう。 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、 あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。」
創世記 3:16-19 口語訳
https://bible.com/bible/1820/gen.3.16-19.口語訳
ここでいう女とはエバ、人とはアダムである。この時にアダムとエバに与えられたものは今もなお人に当てはまる事ばかりである。部分的には違うとしても、産みの苦しみや額に汗して働かないと食べられない現在は多くの人にある。少なくともちり帰る(死ぬ事)は全員に当てはまる。これはつまり私たちの日常こそ、神からの罪のさばきであるという意味である。今既に私たちは罪のさばきのゆえに多くの苦しみに満ちている。そのさばきから救われて神の元に帰るためにはキリストが必要なのである。
時に福音が語られるときに、「今あなたは分かれ道に立っています。キリストを信じて神のもとに帰るのか、地獄への道行くのか選択を迫られています。」という趣旨の事が言われるが、聖書の語る本来の姿は既に神のさばきの中にいる人は地獄への道を歩んでいるのであり、分かれ道に立っているのではない。既に歩んでいる道から救いの道を探してそこに避難するのである。
この違いは小さいようで大きい。何故かというと、分かれ道に立っているという事はその時点では地獄へ行くべき理由はないけど「これからの選択次第で地獄に行くかもしれない」というメッセージだからだ。それは聖書の語る人の姿を正確に教えていない。なぜなら、人はアダムの罪により罪の性質を獲得し生まれた時から神を無視して歩む神に対する反逆者だからだ。少なくとも物事の善悪を直感的に判断できる年齢になったら人は神に対して責任を負う。その責任とは罪のさばきとしての地獄への道を歩むことである。その罪を自覚することが神のもとに帰るスタートラインであり、「分かれ道に立っている」という認識では、自らの犯した罪と向き合うという発想は出てこない。分かれ道の行先は「未来における選択に依存する」ので現在における「罪の問題」とは親和しない。
最終的にはキリストを信じるか信じないかで最終的な行先が変わるという意味では分かれ道にたっているというのも一つの側面ではある。しかし、「なぜキリストを信じる必要があるのか」という事について考えた時、「現在既に犯している罪」について考える必要がある。その事を考慮すると福音は「分かれ道における選択」ではない。既に地獄への道を歩んでいる者の脇道への避難である。聖書の語る福音を聴くときは「未来における選択」ではなく「今の自分が神の前にどのような存在であるのか」という事について考えてほしい。また、語る側もそこを間違えないように注意したい。
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