Categories: 聖書の教え

不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくる

今晩は。rieruです。

聖書の下記の箇所には少し不思議なことが書いてある。

「またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。」
‭‭ルカによる福音書‬ ‭16‬:‭9‬ 口語訳‬
https://bible.com/bible/1820/luk.16.9.口語訳

「不正の富を用いてでも」と言われると泥棒してでも金を作れという話なのかと考えてしまう。ただ、私としてはそうは捉えていない。「不正の富」というのは「人が神から日常受け取っているもの」だと考えている。例えば生きていくに必要な水はそもそも誰のものだったのか。誰かが川から汲んできたものを水道の蛇口から飲んでいるわけだが、川にある水の所有者は誰なのか。一般的には「誰でもない」という回答が返ってきそうだが、聖書によれば、それは「神のもの」であるとはっきり記されている。水以外の「自然」と呼ばれるものは全てそうである。

人は「自然」の恵みによって生きているという事については誰も否定しないはずだが、その所有者が神であるあるならば、人は生きていくために必要なものを神の所有物から奪い取っている。この奪い取ったものを「不正の富」と呼ぶことはそこまで違和感のない話ではないだろうか。

勿論、これは聖書の記述が正しいと仮定した場合の話になるが、「自然」が神の所有物であるという前提にたつ聖書が上記の事について「不正の富」と語るのは不思議な事ではない。

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