今晩は。rieruです。
キリストは弟子に対して、赦しについて下記のように教えている。これは非常に厳しい教えである。この場合赦しは表面的に赦すせば良いというわけではない。この赦しは心底から赦すという事である。これは基本的には今を生きるクリスチャンにも求められることであるが大変難しい。ただし、これは「兄弟(今で言えばクリスチャン)」に対象が限定されているが、それでも困難であることは間違いない。
「もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。」
ルカによる福音書 17:4 口語訳
https://bible.com/bible/1820/luk.17.4.口語訳
しかしながら、クリスチャンはこの赦しについて「無理」といって諦めてはいけない。なぜなら、クリスチャンは神によって罪を赦された存在だからである。クリスチャンに取ってキリストの十字架の故に赦された罪は限りなく重い。それは本来なら到底赦されるはずのない重さである。(念のため言うとクリスチャンになる人は全員大罪人であるという意味ではない。神の基準で言えば人は全員大罪人となる。)その罪を神の恵みによって罪赦されたクリスチャンは、他のクリスチャンの罪をさばく権利はない。それどころか、神がキリストの故に罪を赦した他のクリスチャンを赦すのは当然のことである。下記の部分にクリスチャンの神のしもべとして心構えについて教えられているが、クリスチャンがが他のクリスチャンを赦す事については、「すべき事をした」と言わなくてはいけない。
「同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。」
ルカによる福音書 17:10 口語訳
https://bible.com/bible/1820/luk.17.10.口語訳
勿論、それが簡単にできることではないが、クリスチャンの心構えとして「他のクリスチャンの罪を赦す」ということは神の前に当然のことであるという事は意識しなければいけないし、それを実行するよう努める事も必要な事である。
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