おはようございます。rieruです。
今日は人の弱さについて語りたいと思う。まずは下記の聖書の記事をお読み頂きたい。
「ペテロは言った、「あなたの言っていることは、わたしにわからない」。すると、彼がまだ言い終らぬうちに、たちまち、鶏が鳴いた。 主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。 そして外へ出て、激しく泣いた。」
ルカによる福音書 22:60-62 口語訳
https://www.bible.com/1820/luk.22.60-62.口語訳
この記事は、使徒ペテロがキリストから「わたしを知らないとあなたが言う」という預言を受けていながらそれを実行してしまったという出来事について書かれている。ペテロはキリストに仕える者だったので、「キリストの事は知らない」などと言うべきではなかった。しかも直前に警告を受けていたにも関わらずである。キリストがユダヤ人の陰謀により捕らえて後、ユダヤ人から「あなたもキリストの仲間ではないか?」という追及を受けた時、ペテロはキリストを裏切ってしまった。おそらく、ユダヤ人の手により自分のいのちが危ういと考えたのだろう。しかし、それはやってはいけない事だ。
だが、私はこのペテロの事を非難できるだけ強い者なのだろうか。rieruは人は皆、この時のペテロを非難できるほど強くはないと考えている。この時のペテロ程ではないにせよ、人は自分の意思を貫徹できない弱さを誰しもが持っている。
例えば、「明日こそはだべ過ぎはやめよう」と思ってもいざその日になると身体に良くないジャンクなお菓子をポリポリやってしまったという経験は誰にでもあるだろう。ジャンクなお菓子を食べるぐらいなら良いが、仕事でミスをして自分に都合が悪い事が発覚した時に「ついつい誤魔化してしまい、嘘ではないが前日に他の人に言っていた事とはニュアンスの違う事を上司に報告した」というような事は多かれ少なかれ皆が経験するところではないだろうか。あるいはあからさまに嘘をついてその場を乗り切るという事も時にはある。
それが人間の弱さではないだろうか。人はどんな状況でも、どんな人相手でもブレる事なく自らの意思を貫き通せる程強くない。ただ、それが他の人に明らかになるのか、そうでないかの違いでしかない。それが人本質ではないだろうか。その弱さの故に人は罪を犯す。rieruはそういう自分がいる事を知っているのでペテロを非難する事はできない。仮に、これを読んでいる方の中に心当たりがあってペテロを非難できない人がいるとしたら、そこには罪が存在している可能性が高い。この時のペテロは人の弱さの象徴であり、人が自分の弱さ悟るための物差しのようなものだとrieruは考える。
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