今晩は。rieruです。
今日は旧約聖書のエステル記からクリスチャンが覚悟を持って何かなすべき時について考えたい。まずは下記の記事をお読み頂きたい。
「モルデカイは命じてエステルに答えさせて言った、「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。 あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。
「あなたは行ってスサにいるすべてのユダヤ人を集め、わたしのために断食してください。三日のあいだ夜も昼も食い飲みしてはなりません。わたしとわたしの侍女たちも同様に断食しましょう。そしてわたしは法律にそむくことですが王のもとへ行きます。わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」。 モルデカイは行って、エステルがすべて自分に命じたとおりに行った。」
エステル記 4:13-14, 16-17 口語訳
https://www.bible.com/1820/est.4.13-14,16-17.口語訳
この場面は、アハシュエロス王によってユダヤ人を滅ぼせという命令が出された時の事である。ユダヤ人の一人モルデカイはユダヤ人ある事を隠して王の妃となっていたエステルに王に命令の撤退を撤退を願うよう伝えた。しかし、当時、王妃とは言え王の許可なく王の元へ行く事は禁じられており、それに背いた場合は死刑もあり得た。エステルはそれを恐れていたが、モルデカイはそれが理由で黙るならば、(神は)他の方法でユダヤ人を助ける。事のためにエステルは(神に遣わされて)王妃になった。ここで黙ってはいけないとエステルに説いた。エステルはそれを受けて命の危険を犯してもユダヤ人の助けを願う事を決意した。結果はこのエステルの願いは聞き入れられユダヤ人は救われた。
この事は、クリスチャンは時に大きなリスクを負って神の民であるクリスチャンのために何かを成すということが必要である事を教えてくれているとrieruは考える。クリスチャンにとって自分のいのちであるっても神から頂いたものであり、それを犠牲にして何かを成す事が神の喜ばられる事であるならばそれを成すのがクリスチャンのあるべき姿である。
ただし、それはいのちを粗末に扱う事とは違う。いのちは神から与えられた大切なものであり、簡単に捨てるべきものではない。だから、いのちをかけてでもなすべき事であるか否かは慎重な判断が必要だ。しかし、この時のエステルのように振る舞うべき時もある。大切なのは自分にとってリスクのある事だからと言って全てを選択肢から排除しない事である。どんな事でも、それが神のためになすべきことなのかという視点考え決断する事がクリスチャンにとって必要な事である。
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