Categories: 信仰生活

信仰について誤魔化してはならない。

今晩は。rieruです。

今日は信仰について誤魔化してはならないという事について書きたい。いつものようにまずは下記の聖書の記事をお読みいただきたい。

「しかし、彼は死に当ることは何もしていないと、わたしは見ているのだが、彼自身が皇帝に上訴すると言い出したので、彼をそちらへ送ることに決めた。 ところが、彼について、主君に書きおくる確かなものが何もないので、わたしは、彼を諸君の前に、特に、アグリッパ王よ、あなたの前に引き出して、取調べをしたのち、上書すべき材料を得ようと思う。」
‭‭使徒行伝‬ ‭25:25-26‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/act.25.25-26.口語訳

これはフェストという総督がユダヤ人に訴えられていたパウロについて語った言葉である。フェストはパウロを皇帝の元に被告人として送るべき嫌疑がないと断言している。フェストが嫌疑がないパウロを皇帝に被告人として送ろうとしている理由は何か。ここでフェストは「パウロが上訴したから」と言っているが、それは単なる誤魔化しである。なぜなら嫌疑がないなら自分の権限で釈放すれば良いからだ。ではなぜフェストそんな不合理な事をしようとしたのか。遡って聖書を読むとフェストの動機が下記のように記されている。

「ところが、フェストはユダヤ人の歓心を買おうと思って、パウロにむかって言った、「おまえはエルサレムに上り、この事件に関し、わたしからそこで裁判を受けることを承知するか」。」
‭‭使徒行伝‬ ‭25:9‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/act.25.9.口語訳

答えは、フェストが「ユダヤ人の歓心を買おうとした事」である。エルサレムでの裁判はユダヤ人による裁判であり、パウロを敵視しているユダヤ人が不当な判決を下す事は明白だった。しかし、フェストはユダヤ人の歓心を買いたかったのでパウロをユダヤ人達の好きなようにさせようとした。だが、パウロはユダヤ人の裁判ではなく、当時ユダヤ人を支配していたローマ皇帝の裁判を受けたいと申し出た。そこで、ローマ皇帝に引き渡す理由が必要だという事になり、フェストは嫌疑を無理矢理作り出そうとしてアグリッパに相談をした。

フェストにとって真実に従った事をなすという事はどうでも良く自分の都合が第一だった。パウロをユダヤ人に引き渡せばユダヤ人のご機嫌をとれるという事が最大の関心事だった。パウロが皇帝に上訴した時もとりあえず最もらしい理由を付けて(体裁を整えて)皇帝に送り出す事が第一で、パウロに裁かれる罪があるかどうかはどうでも良かった。

こう考えるとフェストという人物が如何にご都合主義の人間かという事を感じるが、実は人は皆おおかれ少なかれそういう所を持っている。真実が何かを知っていても自分に都合が悪いとなかったことにしたり、事実をねじ曲げて何かをしようとする。自分の事を考えるとフェスト程大事ではないにせよ誤魔化したり、言い訳したりした経験があるという人は多いのではないだろうか。

言い訳や誤魔化は人のタチの悪い性質である。そこから完全に抜け出す事は簡単ではないが、少なくともクリスチャンが信仰の事については誤魔化しや言い訳をするべきではない。それは神の前に恥ずべき行為である。クリスチャンは如何に聖書の言葉が自分に都合が悪くてもそれに真剣に向き合う必要がある。それを誤魔化してはいけない。例え人の目は誤魔化せても神の目は誤魔化せない。フェストの態度からクリスチャンはその事を強く戒められるべきである。

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