おはようございます。rieruです。
今日は聖書の語る福音に対する恐れについて語りたいと思う。まずは下記の聖書の記事をお読み頂きたい。
「数日たってから、ペリクスは、ユダヤ人である妻ドルシラと一緒にきて、パウロを呼び出し、キリスト・イエスに対する信仰のことを、彼から聞いた。 そこで、パウロが、正義、節制、未来の審判などについて論じていると、ペリクスは不安を感じてきて、言った、「きょうはこれで帰るがよい。また、よい機会を得たら、呼び出すことにする」。 彼は、それと同時に、パウロから金をもらいたい下ごころがあったので、たびたびパウロを呼び出しては語り合った。」
使徒行伝 24:24-26 口語訳
https://www.bible.com/1820/act.24.24-26.口語訳
これは、当時の総督ペリクスという人がパウロから福音を聞いた時の事である。ペリクスはパウロの語る福音に興味があった。そして実際にパウロに福音を聞いたところ、「恐れた」その理由はパウロが福音を語る中で「正義、節制、未来の審判」を語ったからだ。これをもう少し一般的な言葉に直すと「人の罪とその裁き」である。福音には罪とその裁きの話を避けて通る事ができない。人の罪が神の前にいかに重いもので、その罪に対する裁きが極めて深刻なものである事を知らないと、その裁きから自分を救うキリストの価値が分からないからだ。
しかし、罪の話やその裁きの話は心地の良いものではない。リアルに神の裁きを語る時それはできれば避けたくなるのも人情だ。ここで罪とその裁きの話を恐れた。恐れただけでなく、その話から逃げてしまった。恐れたならばその恐怖から救われるべくさらに福音を聞けば良かったのだが、避けてしまった。
rieiuはこのブログを読むクリスチャンでない人達にペリクスのようであって欲しくない。聖書の語る福音を聞いて恐れを感じても逃げないで欲しい。恐れを感じるという事はその福音になんらかの力があるという事だ。それだけでその福音が全て真実だという証拠にはならないが、「本物であるかもしれない」という根拠にはなる。聖書が全くでたらめならなんの感情も湧かないはずだ。恐れは聖書の語る福音に多少なりとも心を揺さぶる力があったという事だ。それならばこれは本物かもしれない。是非そういう考え方で聖書と向き合って欲しい。
福音は決して心地よいメッセージだけではない。福音が心地よいメッセージだけになるとしたら、語る側が大事な事を伝えていない可能性がある。福音を聞いて恐れを感じるならばその先に最も大事な事がある。rieruはそう確信しているし、一人でも多くの人がその事に気づく事を心から願っている。
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