今日は。rieruです。
今日は人が救われるためには自らの罪と向き合う必要があるという事について語りたい。その参考になるのが下記の聖書の記述である。
「そこで、パウロが、正義、節制、未来の審判などについて論じていると、ペリクスは不安を感じてきて、言った、「きょうはこれで帰るがよい。また、よい機会を得たら、呼び出すことにする」。」
使徒行伝 24:25 口語訳
https://www.bible.com/1820/act.24.25.口語訳
これはペリクスという総督が福音に興味を持ちパウロから福音を聴いた時の記述である。ペリクスはパウロが「正義、節制、未来の審判」について語るとそれを嫌って福音を聴く事を拒んだ。「正義、節制、未来の審判」とは簡単に言うと罪の事である。正義とは神の前における罪に関するルールである。節制がない状態とは「神に生かされているにも関わらず、神を敬わず自らの欲のために生きるという自己中心の罪」の指摘である。未来の審判とはその罪に対する神の厳粛な裁きである。
これらパウロの罪に関する指摘に対してペリクスは逃げてしまった。これは人が救われる過程で絶対に避けなくてはいけない事である。福音を信じる過程に置いて自らの神の前における罪深さとそれに対する神の裁きの重さを理解する事はどうしても必要な事である。それを心から理解しなければキリストの十字架の意味も理解できない。その理解がなければキリストを信じる信仰に至る事はあり得ない。だから罪と向き合うことは救いに不可欠なのである。
一方で、自らの罪と向き合う事は辛い事である。自らが神の前に死罪に当たるとしても当然であると理解する事は苦しい。またそれに対して神が下される審判の重みもまた考えるだけで恐ろしくなる。逃げたい気持ちも分からなくならない。しかし、同時にその苦しい事の先に神とキリストの愛があるという事も知って欲しい。死罪に当たるべき私達のために神は子供であるキリストを十字架で死に至らしめてくれた。キリストは自らの命をささげてくれた。それは私達の罪がキリストによる償いのゆえに赦されるためである。
私達の神の前にもおける罪の重さと、神とキリストの愛は表裏一体である。罪を自覚する事の苦しさと本物の愛を知る喜びも一体である。これをお読みの方で聖書の福音に興味があるという人は自らの罪と向き合う苦しさから逃げないでほしい。その先に本物の愛を知る喜びがあるのだから。
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