クリスチャンは基本的に周りの人たちとの平和を希求する。隣人を愛することが神様の命令だからだ。強い言葉や態度で他人に対して接することはしない。仮に肉の欲に負けてそうしたことをするならば、悔い改めなくて神様と相手に謝罪しなくてはいけない。
しかし、例外はある。それは福音が曲げられようとする時だ。ガラテヤの手紙で使徒パウロは福音を曲げてしまった使徒ペテロを公の場で避難したことを告白している。また「別の福音」をガラテヤの教会にもちこもうとする者について「のろわれるべき」という強い言葉で非難している。
福音が曲げられようとしたとき、クリスチャンは戦わなくてはいけない。なぜならば、それはいのちの問題だからだ。福音が曲げられたとき、多くの魂が滅びにいたる。周りのクリスチャンたちの正常な信仰生活が深刻なダメージを受ける。それは絶対に避けなくてはいけない。だから強い言葉や態度でそれを止めるのだ。
そのことはどんな事情があろうとも貫かなくてはいけない。その結果自分にとって大事な人を失うことがあっても変わらない。大切な友人や家族を失うことがあっても変わらない。いや変えてはいけない。クリスチャンにとって福音を守ることより上位に来るものはない。仮にそれがあるとするならば、その人はクリスチャンを名乗ってはいけない。それほどまでに福音を守ることは大事なのである。