Categories: 福音聖書の教え

誰も奪い去るこのとのできない喜び

今日はクリスチャンの喜びの源泉について語りたい。その源泉は下記の聖書の言葉の中に記されている。

「このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭16:22‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/jhn.16.22.口語訳

これはキリストが十字架にかかる前に弟子に対して語られた言葉である。「わたしは再びあなたがたと会う」とは十字架で死んだキリストが死から復活して弟子と再会する事を意味している。その再会は弟子達にとって喜びとなるとキリストはここで預言をしている。事実、弟子達はキリストの死によって大きな落胆を経験したが復活のキリストに会った時、その喜びは非常に大きなものであった。復活のキリストに出会う事により、弟子はキリストが「本物」である事を悟った。この方が神から出ていて、全てを委ねるに相応しい方であると知る事ができた。この方の後ろを歩む事に絶対の安心があると理解した。復活のキリストに出会う事はすべての議論を終わらせる。その事実は人の心を捉える。その結果、キリストの存在がその人の心を支配するようになる。復活のキリストと出会うという事は極めて大きな力を持つ。

実はこれは人が救われるプロセスの最終局面である。人が救われるプロセスの最初は聖書の語る福音に興味を持つ事である。その興味を起点に福音を聞く。具体には聖書を読み、クリスチャンの語る福音に耳を傾け、疑問を個人的にクリスチャンに投げかける。その上で自分自身で聖書を読み、考える。どれも重要なプロセスだが、最後に行き着く所は復活のキリストと出会うことである。キリストは復活して今なお生きている。福音が語られる時、あるいは聖書という神の言葉に触れる時そこにキリストは生きている。そのキリストを心で感じる時、キリストとの出会いが生まれる。その出会いは全ての議論や疑問に終止符を打ち人をキリストに対する信仰に導く。信仰によってキリストが人の心に入る時人は大きな喜びを覚える。その喜びは誰も取り去る事はできない。それが冒頭引用した聖書の言葉の意味である。

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