おはようございます。rieruです。
聖書は未来の預言をしている書物である。そして、人は「未来を知りたい」という欲求が常にある。時にクリスチャンでもこの預言にのめり込み過ぎるという事が起こる。しかし、聖書は未来の事について書いてはあるが、非常に抑制的に書かれている。神の命令や人の罪、キリストの十字架、クリスチャンの信仰生活の在り方、こうした要素については聖書はハッキリ断言するが、未来についてはアバウトである。未来についての預言も聖書の一部ではなるのでそれを理解する事は大事だが、その際に上述のような前提を無視して聖書を通して人が未来について完全に理解しようとすることはクリスチャンとして正しくない。
次に、「聖書は未来についてアバウト」という事について具体例を紹介したい。聖書の未来の預言の中核は「キリストの再臨」である。その再臨が1回なのか2回なのかという点は色々意見が分かれる(このこと自体が聖書が未来についてアバウトな証拠でもある。)がキリストの再臨の時期については下記のように「人には知らされない」と聖書は断言している。そして、再臨の時期の明確な時期については聖書は完全に沈黙している。
「さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。 彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。」
使徒行伝 1:6-7 口語訳
https://www.bible.com/1820/act.1.6-7.口語訳
「兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書きおくる必要はない。」
テサロニケ人への第一の手紙 5:1 口語訳
https://www.bible.com/1820/1th.5.1.口語訳
そして、聖書は再臨の時期が分からない事を前提にキリストは下記のように語っている。
「だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。 このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。 だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」
マタイによる福音書 24:42-44 口語訳
https://www.bible.com/1820/mat.24.42-44.口語訳
これは今のクリスチャンには関係ない(クリスチャンがこの地上から取りされた後の出来事である)という理解もあるが、例え直接今のクリスチャンに関係ないとしても、クリスチャンを神の下へ招くために来るキリストもいつ来るか分からないのだから、心構えとしては同じであるべきとrieruは考えている。聖書が教えているのは「未来になにが起こるのか」という事であり「いつ起こるのかという点については沈黙している。
もう一つの注意しなくてはいけないのは下記のように神の時間軸と人の時間軸は違うという点である。
「愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。」
ペテロの第二の手紙 3:8 口語訳
https://www.bible.com/1820/2pe.3.8.口語訳
聖書には未来に起こる事自体は予言されているので、その一つとおぼしき事が地上に起こったとしてもそれに続いて人の感覚で「直ぐに」次の事が起こるとは限らない。神にとっては千年が一日のようであることがあるからだ。つまり神の中では「直後」が「千年後」かもしれないのである。それは人には理解できない神の領域である。その神の領域を人が簡単に規定してはいけないのである。だから、クリスチャンは未来については謙虚に「分からない」という前提が必要である。
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