聖書は単なる教えではない。
「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。」
ローマ人への手紙 1:16 口語訳
http://bible.com/1820/rom.1.16.口語訳
聖書は福音を神の力であると表現している。この事は大変重要である。ともすると聖書は「キリスト教の経典」というイメージから単なる教えの集合体と捉えられがちだが、実態はそうではない。聖書には神の力がある。それも人を変える力がある。それは福音だけでなく、聖書の教えも同じである。
聖書が単なる有り難い教えであり、その教え自体には何の力もない言葉に過ぎないのであれば私はこの聖書にここまでの時間を捧げる事はない。私が曲がりなりにもクリスチャンとして20年以上の時間を費やしてきたのは、聖書が単なる教え以上の力を持っていたからだ。
その力の初めが福音である。聖書の語る福音に良く耳を傾ければその力を感じることができる。福音に示された神の力を感じる事がクリスチャンの初めである。これは聖書の知識ではなく、体験であり、実感である。これは他人が変わって教える事が出来ない事柄だ。百聞は一見にしかずの世界だ。
クリスチャンは聖書の語る言葉に何らかのキッカケで触れ、それが本当か否か自分でよく考え、吟味しその過程で神の力を感じるようになる。聖書と向き合う過程で感覚的にこれが本物だと感じる。これこそ神の力である福音の働きだ。これは頭で知識として聖書が神の愛とかキリストの十字架について何を語るかということを理解することとは決定的に違う。神の力である福音が心に訴えかけるものがあると感じることである。
そしてそのことは、人が救われてクリスチャンになってからも続く。それは聖書を通して神が今私に何を望んでいるのかということを教えられるという形で続く。救われたクリスチャンにとっては聖書がクリスチャンをあるべき姿を教える神の力なのである。
「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。」
テモテへの第二の手紙 3:16-17 口語訳
http://bible.com/1820/2ti.3.16-17.口語訳
クリスチャンになるということは聖書に示された神の力を感じ続ける生涯を送ることという意味を持つ。