今日は。rieruです。
時々クリスチャンの祈りの中で「苦しみに合わせないで下さい。」という趣旨の祈りがあるが、この祈りはクリスチャンにふさわしくない。なぜなら聖書にはクリスチャンとして真っ当に生きる者には迫害があると書かれているからだ。
「いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。」
テモテへの第二の手紙 3:12 口語訳
https://bible.com/bible/1820/2ti.3.12.口語訳
この言葉の意味はクリスチャンが神の前に正しい事を行えば行うほど、悪魔の攻撃があるという事である。悪魔はクリスチャンの生活が正しくあって欲しくない。クリスチャンが自らの弱さのゆえに自滅してくれる時に悪魔は何もしない。しかし、クリスチャンが神の前に正しく歩み、神の栄光を人々の間に示す時、悪魔はそれを妨害すべく迫害という手段に訴える。
迫害は言うまでもなく苦しみであり、苦しみに合わせないようにして欲しいという祈りはクリスチャンとして正しく歩む以上答えられることのない祈りである。その祈りが応えられるためにはクリスチャンとして怠惰な悪魔が喜ぶような歩みをする必要がある。それはクリスチャンとして避けるべき事である。
この矛盾を解決したするためには、「例えクリスチャンとして苦しみの中にあるとしても、神の前に正しく生きる力を下さい。」と祈るべきである。
ところで、これだけ読むと「クリスチャンになる事は苦しむためなのか?」と誤解を受けそうだが、それは全く事実と異なる。クリスチャンはその迫害以上のものをキリストから受けるからである。クリスチャンの心にはキリストの限りのない愛が注がれている。その愛の中に生きる事はクリスチャンに取って限りのない喜びである。その喜びを共有できる他のクリスチャンと共に過ごす時間もまた至高の喜びでもある。そして、何よりも死後キリストを信じる信仰のゆえに神の元に帰り永遠の喜びの中に入れられるという確信がある。
それに比べたら、この地上で自らの救い主であるキリストが喜ばれる事(クリスチャンとして神の前に正しく生きる事)によって受ける迫害は大した話ではない。むしろその苦しみは神の前の正しく生きている証であり、クリスチャンとしての誇りである。また、迫害されないようなレベルの低い信仰生活は恥である。それを理解せずに、ただ「苦しみは嫌だ」という思いに心が満たされているなら、今一度自らの信仰の在り方を考え直すべきである。
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