おはようございます。rieruです。
ペテロ第一の手紙に「クリスチャンとして苦しみを受ける」という事について下記のように記されている。rieru の実感としてはこれは非常に難しい事である。
「しかし、クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば、恥じることはない。かえって、この名によって神をあがめなさい。」
ペテロの第一の手紙 4:16 口語訳
https://bible.com/bible/1820/1pe.4.16.口語訳
このクリスチャンとしての苦しみを受ける事の前段には下記のように記されている。これはつまり、罪の故に神によって懲らしめを受けて苦しみを受ける事は「クリスチャンとして苦しみを受ける」という事ではないという意味である。
「あなたがたのうち、だれも、人殺し、盗人、悪を行う者、あるいは、他人に干渉する者として苦しみに会うことのないようにしなさい。」
ペテロの第一の手紙 4:15 口語訳
https://bible.com/bible/1820/1pe.4.15.口語訳
自分自身の信仰生活を振り返ってみると、自らの肉の欲求の故に失敗をして神によって懲らしめを受けるほうが多く、その苦しみの原因が自分自身にあると感じることがほとんどである。しかし、稀に自分自身の肉の欲求に打ち勝ち神に仕える事が実現していると感じる事がある。その状態になった時には決まって問題が起こる。
聖書によれば、神はこの世を一時的に悪魔が支配することを許容している。悪魔はクリスチャンが神の栄光を現す時に、それを全力で阻害しようとする。それゆえ、クリスチャンが正常な状態になった時に強い攻撃を加えてくる。それが「クリスチャンとして受ける苦しみ」である。
ある意味、クリスチャンは、「悪魔による攻撃」の対象となる状態であることが求められる。クリスチャンが自分の欲望に負けて罪の生活を行う時、悪魔はクリスチャンを攻撃する必要すらない。その状態はクリスチャンに取って正常な状態ではない。また、それがクリスチャンの幸せでもない。勿論、悪魔の攻撃にさらされる事は辛い事だが、自らの欲に負けて罪の生活を送る故に神に懲らしめられて苦しむよりはずっと良いことである。
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