聖書は人の心に媚びる事はない。

今晩は。rieruです。

少し意外に思われるかもしれないが、聖書は人の心を満足させる事を第一に書かれてはいない。例えば、人の罪の実態を赤裸々に語っている所は多くある。特に旧約聖書の歴史を記した書物などはできればあまり目にしたくないような悪で満ちている。

更に、非常に厳しい神の基準で1人1人の人間の罪を糾弾している。また、罪に対する極めて激しい神怒りについてもハッキリと語っている。それは読み手が正面からこの事実を受ける取る時に、恐怖を覚えるほどである。

勿論、そこからの救いであるキリストは福音であり、それが聖書の価値ではあるのだが、その福音に至る過程で書かれている事は決して耳障りの良いものではない。それは聖書が「人の心を癒すために」書かれた書物ではないからだ。

では、聖書の書かれた第一の目的は何か。それはこの世を支配している神の意思を人に伝える事である。聖書はただそれに忠実なので人の心に忖度しない。人が聞く時に心を痛めるような事であっても、それが神の基準であるならばその事実を包み隠さず伝えるのである。

時に、初見で読む人にとっては時に、それが辛いかもしれないが、是非そこから逃げないで欲しいと思う。また、聖書の語る言葉を伝えるクリスチャンはそこを曲げてはならない。罪の問題を語ると聞き手の心が離れるからと無用な配慮をしてはならない。神の義は神の義であり、それを曲げる事はクリスチャンの最もしてはならない事である。

そこを曲げてしまうと福音が福音でなくなる。福音の本質は自らの力で神の義を達成し得ない人がキリストの償いにより義とされるという事であり、自らの罪を自覚していない人はその福音を受け入れるという事はないからである。

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