今晩は。rieruです。
クリスチャンに取って行動の基準の一つとして、下記のキリストの言葉は重い。
「自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。 あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。」
ルカによる福音書 12:33-34 口語訳
https://bible.com/bible/1820/luk.12.33-34.口語訳
まず、自らが宝としているのは何か?という問いがこの言葉から派生する。クリスチャンが大切にしているものがこの地上あるならば、そのクリスチャンの目線は間違っている。なぜなら、クリスチャンが大切にすべきは天にある宝だからである。その宝はこの地上では手に入らない。それはクリスチャンが死後神の元に帰った時に報いとして受けるものだからである。
その報いが増すよう努めなさいというのか前段の言葉の意味である。ここでは具体例として「施す事」が出てくるが、これはこのキリストの言葉が発せられる前に、この世の富に執着する人がキリストの元に来たので、その事を戒めるために出た言葉だからである。つまり、この世の富を集める事に執着するのではなく、むしろ、与えられた富を用いて「神に喜ばれる事をしなさい」というのがこの言葉の直線の意味である。
よって、「施す事」は例示であって、天に宝を積む方法は、「施す事」に限らない。聖書の言葉に示されている神の喜ばれる行いは全て「天に宝を積む行いである。」そして、クリスチャンは何かを成す時は常にそれが「天に宝を積む行いであるか」という事を念頭に置かなくてはいけない。
勿論、これは簡単な事ではない。肉の欲に負けてこの世の快楽を優先してしまう事はどんなに経験を積んだクリスチャンでも起こる。しかし、それで良いという事にはならない。そこで現実に妥協して諦める事はクリスチャンのなすべき事ではない。
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