銀貨と羊の例えに示された神の犠牲

今晩は。rieruです。

放蕩息子のたとえの前に100匹の羊の一匹が失われるという例えと10枚の銀貨のうちの1枚が失われるという例えがキリストによって語られている。その二つの例えは探す側がハッキリ言って割の合わない事をしている。100匹のうちの一匹が居なくなっても残りの99匹を野原に残して居なくなった一匹を探すとか、10枚のうち1枚を無くしたからと部屋中を探し回るとかは必ずしも合理的でない。

そんな合理性のない持ち主が例えで登場するには意味がある。それは神が1人の罪人を救うためにどれだけ犠牲を払っているかという事を示すためである。神は罪を犯して裁きを受けても自業自得の罪人を救うために我が子であるキリストを十字架に磔にした。そこで神は本来なら罪人が受けるべき罪の裁きをキリストの上に下した。それは、罪人がキリストを信じる事により救われるためである。

我が子をしに至らしめるという犠牲は限りなく大きい。そこまでして神は罪人を救おうとしている。この事を、キリストは上記の例えにおいて、持ち主が1枚や、一匹のためにトコトン犠牲を払う持ち主の様子で表現している。放蕩息子の例えは福音の中から十字架の要素が抜けていると言われることがあるが、その前の例えの中にその答えがある。この三つの例えは全部総合して考えるべきなのである。

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